神田日勝を育てた笹川
以前も書きましたが、日勝は東京から拓北農兵隊の制度に乗り、鹿追村に辿り着いたのですが、その後の生涯を笹川地域で送ることになります。
日勝は東京練馬にある東京都開進第二国民学校2年生から編入して鹿追村字クテクウシ区画外7番地の笹川尋常小学校2年生となりました。
同校開校時(大正3年(1914年)の校名は「鹿追教育所付属瓜幕特別教授場」でした。しかし、瓜幕旧市街に「瓜幕特別教授場」が出来たことにより校名変更を余儀なくされ、考えたすえ「ウリマク」すなわち「アイヌ語」の「笹のある川」に起源し「笹川小学校」と命名されたと伝わっている。(しかし、後日の笹川部落史の調査で、ウリマクはアイヌ語で笹のある川とは意味が全く違うことが判明しており、命名の最も有力な説は「笹やぶと川のある土地」という土地柄を表し「笹川」と命名したものであろうとされ現在に至っている。)
日勝家族が入植した笹川には、その名の通り未だ笹薮・雑木が鬱蒼と生い茂る雑木林がそこここにあり、日常の暮らしには、東京の日常にあった便利は何も無く、常にそこにあるもののみで生きる工夫が求められ、それでも無いものは我慢しかありませんでした。電気・電話・ガス・水道も無く、夜には漆黒の闇が手作りの掘っ立て小屋を包み込みました。トイレ・風呂は家の外、飲み水や洗濯などの生活水は小川の水を汲んで使用する。馬も車もなく隣の家は100mほども離れたところにあり、笹薮を踏み分けたぬかるむ道路、買い物は2キロ程離れた雑貨店まで徒歩で。当時の小学生の遊びも殆どが身の回りの自然が相手でした。
このように、笹川での仕事も遊びも日常の生活をするために必要な「もの」は何も無く、ただ飢えを凌ぐ日々が続くのでした。
これらが当時の東京疎開者の一般家庭の当たり前の生活だったのです。
中学校を卒業し営農を継いだ日勝は笹川でギリギリに生きる生活の一つ一つに真正面から向き合い、また、先住の近隣の人々とのつながりや、やがて高度経済成長で大きく変貌していく時代の波を見つめ、押し流されることなく、自己の主張を表現しつつ生きたことが、後の日勝の絵画制作の土台となっていくのです。言い換えれば、拓北農兵隊で辿り着いた笹川が日勝を育て、笹川が日勝作品を育てたといっても過言ではないと思います。
平成30年12月2日の日曜日。今話題のNHK朝ドラ100作目「なつぞら」に広瀬すずさん扮するヒロイン「なつ」の相手役とされている吉沢亮さんが神田日勝記念美術館での某月刊誌の撮影に訪れました。ドラマの中では、前述した実在の神田日勝がモデルとなっているとされている山田天陽役で出演するといわれています。某誌国宝級イケメンランキングで1位を獲得したという端正な顔立ちで作品を丹念に鑑賞され「凄い。かっこいい(作品が)」と賞賛していました。
昭和の開拓の時代を生きた逞しくも繊細な神田日勝ならぬ「山田天陽」のドラマでの活躍がとても楽しみです。
神田日勝記念美術館館長 小 林 潤