慌しい一年でした ①
この美術館が開館して、二十周年という節目の年に当たり、そのことを象徴するようなことが相次いだからです。始めに軽い気持ちで企画した「浅野修さん」の展覧会が、会期が近づくにつれ、画家の熱意もあり、神田日勝作品とのコラボレーションとスケールアップし、「日曜美術館」でも大きく取り上げられる一因となりました。初めはアートシーン程度と思っていましたが、特集番組として放映されたことは望外の出来事といえました。その効果は絶大で、全国からの問合せが殺到、北海道新聞社から買い取った「画集」も完売し、新たな画集の公刊を真剣に考える事態となりました(旧画集は既に絶版処置)。さらに「日曜美術館」の再放送も実現するという嬉しい付録がつきました。
独立展等の関連で銀座の画廊をまわっていて異口同音だったのが、あの「日曜美術館」で見た画家の美術館は貴方の所という声です。美術館の存在がグレードアップしたことを痛感した瞬間でした。
斎藤吾朗さんの作品が寄贈されたことで再度の個展が企画されましたが、サービス精神旺盛な画伯のこと、ご当地での同時期の個展と重なりながら短い期日ながら会場を訪れ、「神田日勝記念美術館友の会」等の鹿追で前回出会った人たちを描いた「鹿追の馬追人」と題する作品を帯同していただいたことです。描かれた人たちも悪い気はしない、結果的に人が人を呼ぶかたちとなり、盛況な展覧会でした。後日談―独立展の会場でこの作品が地元の展覧会の後寄贈いただけるという。ありがたい話です。
入院中木田美術館で講演させていただいた。外泊許可の中、話は聴衆の方々にはお粗末で申し訳ないが、結果的に個人名を冠した美術館のあり方にひとつの方向性を自分なりに纏める機会となりました。個人名を冠した美術館の運営はそれなりに確固とした理念と実践を伴う。そのことが認識できたことが嬉しいし、その機会を提供していただいた岡部学芸員に深い感謝を申し上げたいと思います。その内容は別機会に詳述します。
入館者50万人達成は記念式の翌日のこと。入館者の鈍化の中、よくぞここまでという思いで記念品を贈呈させていただきました。猛吹雪、たった一人といいながら、職員も二の足を踏む気象状況の中500円玉を握り入館された人、はたまた感涙の中絶筆の前に佇む人、そんな光景を思い出しながらの達成記念日でした。
神田日勝記念美術館長 菅訓章