神田日勝と拓北農兵隊 その1

 過日、幼少の神田日勝が加わった「拓北農兵隊」を詳述した著書に巡り会いました。
神田日勝の家族が「拓北農兵隊」に応募し北海道十勝鹿追に疎開したことは知られている話です。改めて「拓北農兵隊」について触れてみます。
 同隊の創設趣旨には「食糧増産と戦災者救済」が謳われていましたが、実のところは民生の安定と食糧増産・農業労働力として戦災者を活用するというものであったそうです。
 1945年(昭和20年)7月6日の午後、東京下谷区にある桜ヶ丘国民学校校庭において、戦災者北海道集団帰農の第一次壮行会が執り行われ、西尾寿造東京都長官が「帝都戦災者の北海道開拓集団帰農者を『拓北農兵隊』と命名す」と宣言しました。ここに、「拓北農兵隊」なる言葉が公にされたのでした。道内入植者の内訳は137町村に3,446戸・17,305人にのぼったそうです。
 募集主体は北海道庁や警視庁(当時の警視総監は後の北海道知事町村金五)・東京都・戦災者北海道開拓協会であり、募集要項には特典として「移住地までの鉄道賃無料、住宅の用意あり、一戸とりあえず一町歩の農地貸与(将来は10町歩ないし15町歩の土地を無償貸与または付与す。農具及び種子を無償給与、移住後の主食品の配給を確保、生活困窮者は生活費一人月30円以内を6か月補助)」などが列挙されていました。
 戦争苛烈を極める昭和20年8月、神田要一一家は板橋区が募集する「拓北開拓団」(第五次拓北農兵隊)に応募し、32戸49名の一員となり7人連れ立って住み慣れた東京練馬を後にしました。神田日勝7歳の夏でした。

 つづく

 神田日勝記念美術館館長  小 林  潤