第31回馬耕忌講演会録
日時
2023年8月27日
会場
鹿追町民ホール ミュージカルホール
本イベントについて
演題「“ユルリ島の馬”と“未完の馬”」
講師:岡田 敦 氏(写真家 / 芸術学博士)
司会:福地 大輔 氏(北海道立釧路芸術館学芸課長)
福地 皆さま、はじめまして。わたくし、北海道立釧路芸術館の福地と申します。
以前に岡田さんの展覧会の担当をさせていただきましたご縁で、今回の開館30周年記念展Ⅱ「神田日勝×岡田敦 幻の馬」、こちらには岡田敦さんの作品がいろいろと出品されておりますが、今回の出品作品、そしてこれまでの制作に関してのことを、私からお尋ねさせていただく対談形式で進めさせていただきます。それでは岡田敦さん、よろしくお願いいたします。
岡田 よろしくお願いします。写真家の岡田と申します。今日はご来場いただきありがとうございます。
福地 それでは、早速ですけれども、先ほど壇上のスクリーンに流れていました映像ですが、前半は鹿追の光景ですか?
岡田 そうですね。展覧会のオープニングは8月11日だったのですが、その後に鹿追の笹川地区(※神田日勝が暮らしていた地域)に行って撮影した写真です。
今回の展覧会は去年(※2022年)の春にお話をいただいて、それから一年間かけて展示プランを考えてきたのですが、やはり展覧会が始まったら、神田日勝という人がどんな場所で作品を描いていたのか、どういう生き方をしていた人なのかということを、まず自分の眼で確かめたいと思い、彼が暮らしていた場所や、青春を送った場所などを巡って写真を撮ってきました。また、今回の展覧会では日勝の《開拓の馬》(1966年/No.19)という作品も展示しているのですが、その絵が最初に飾られた場所が「北鹿追神社」だと伺ったので、そうした日勝にゆかりのある場所を巡って撮った写真を、まず最初にコラボレーションという形で“馬耕忌”(神田日勝の命日にあわせて開催される、日勝の画業を偲ぶ集い)という今日この日に上映できたらと思っていました。
福地 そういうことだったんですね。ちなみに、北鹿追神社に《開拓の馬》が展示されてたときは、いわゆる“絵馬”として掛けられていた、ということだったかと思います。ちなみに、岡田敦さんご自身も鹿追にゆかりがあるということを伺ったのですが。
岡田 それはですね、父親が20年ほど前に鹿追高校に勤めていました。僕は当時23歳ぐらいで、東京の大学院に通っていたのですが、夏休みの帰省などで鹿追には何度も来ていたので、ゆかりのある街だなと思っています。それから当時も鹿追高校に伺ったことはあるのですが、先週もまた鹿追高校を訪ねて。母校ではないのですが、懐かしい学校だなというふうに感じています。
福地 その、20数年前の当時のことって、何か記憶に残ってることはございますか?
岡田 当時の鹿追の街も覚えていますし、神田日勝記念美術館に初めて来たのもそのときで、大人になって初めて日勝の絵を見たのはそのときですね。
僕が最初に日勝の絵を見たのは10歳ぐらいのときで、札幌にある北海道立近代美術館で《室内風景》(1970年)という作品を見たのですが、一種のトラウマになるような衝撃を受けました。怖くて仕方がなかった。
福地 結構、すごく、はっきりとした個性的な表現ですね。
岡田 親に褒められるとか、学校の先生に褒められるような絵が“いい絵”だと思っていた僕が、「芸術とは、そういうものではないのだ」ということを初めて知ったのは、もしかしたら小学生のときに日勝の《室内風景》を見たときだったのかもしれません。それから大人になってまた《室内風景》を見たときは、少し違った見え方がしたのですが……。
福地 はい。
岡田 ですから、神田日勝という人は僕にとって、その年齢によって作品の見え方が変わってゆく作家だなというふうに感じています。
福地 なるほど。ちなみにその《室内風景》といいますと、本当にいろいろとはっきりとした部分がある作品です。新聞紙に囲まれた空間があったり、その中でうずくまる日勝の自画像のような男の表現だったり、それから足元に散らばっている魚の骨とか果物の皮、生ゴミみたいな描写だったり……。いろいろと、ちょっとこれはなんだろうって思う要素があったと思うんですけど、特に惹かれた部分、気になった部分、もしくは全体がトラウマになったっていうことだったのでしょうか?
岡田 あの絵に描かれているものは……若者というか、青年が体育座りをして狭い部屋の中に閉じこもっている姿が描かれている絵ではあるのですが、何かこう、その絵を見ている僕の心の内側の奥深い部分を逆にのぞき込まれているかのような怖さ……芸術家というのはそういうものの見方をする人なのだという……本質を見抜くというか、そうした作家の眼が絵の中に宿っている。絵と対峙(たいじ)したときに、例えば自分の弱さであったり、ずるさであったり、そうしたものが見透かされているかのような怖さがありました。
福地 なるほど。そうした岡田敦さんの生み出した写真が、歳月を経て今回の展覧会という形で神田日勝の作品と共演することになりました。今回、展覧会「神田日勝×岡田敦 幻の馬」展でメインで出品されております「幻の馬」ユルリ島を舞台にした、そこで暮らす馬たちを主題にした作品の背景について、いろいろとお伺いしていきたいと思います。
まず、今回の作品の舞台となっております「ユルリ島」という場所が、どのような島なのかということについてからお話を伺いたいと思いますが、北海道の根室の沖にあたる場所に所在するのですよね。
岡田 今まさにスクリーンに映っているのがユルリ島です。ご覧のように、平たいというか、何もない。周りは崖に囲まれています。船が接岸できる場所は1カ所しかないという、変わった地形をしています。北海道の根室半島の太平洋側にある昆布盛(こんぶもり)という集落からは3キロメートルほどなのですが、この島で人が生活を始めた当時はエンジン付きの船もなかった時代なので、僕たちが想像する以上にこの島に渡ること、そして馬を連れてゆくことは大変だったと思います。
具体的な場所を説明しますと、(※スクリーンを示しながら)赤い印の所が鹿追町ですね。青い印の所が根室半島の付け根にあたります。その付け根の南側に、“ユルリ”という名の島があります。島の名前は、アイヌ語で「鵜のいる島」という意味です。そのすぐ隣に「モユルリ島」という島があるのですが、“モ”というのはアイヌ語で「小さい」という意味で、「小さいユルリ島」という意味の島が隣に並んでいます。(※スクリーンを示しながら)ここが根室半島ですが、青く塗った部分が「ユルリ島」です。ですから、とても小さな島ですね。周囲は8キロメートルほどです。
福地 周囲8キロメートルというと、小ぢんまりというには、人間のスケールでいいますと、目で見ると必ずしも小さいとは言い切れない大きさになると思いますが?
岡田 そうですね。数字で聞くと小さく感じますが、道があるわけではないので、島を歩いて1周しようと思えば、やはり1日ぐらいはかかりますね。草原の上を歩くので、当然足を取られますし、草丈が高くて歩けないような場所もあるので。そんなに簡単に島の上を自由に移動できるということではないですね。
福地 たしか、湿原が広がってるというお話を伺ったことはあります。
岡田 島の中心が高層湿原になっているので、そこを歩くことはできないです。(※スクリーンを示しながら)地図の左下に「緩島(ゆるりとう)灯台」という文字が映っているのですが……。
福地 先ほどの、向こう側から見た写真で、少し右側の方に尖っている塔のように見えるものがありましたね。
岡田 そうですね。島の南西側にあるのが緩島灯台ですね。地図には「番屋跡」などの表記もしるしたのですが、実際にはほとんど何も残ってないので、島にある人工物というのは灯台のみで、その灯台を目印に島の中を移動しながら撮影をしています。自分がどこに向かって歩いているのかを把握するための目印も灯台のみです。
福地 きっと根室にも、そういったすごく自然が残されている島があるということがなかなか世の中に知られていないと思います。そのような島のことをご存じになったきっかけは何だったのでしょうか?
岡田 僕がユルリ島の写真を撮りはじめたのは2011年、興味を持ったのはその2年ほど前です。当時のユルリ島は道内でもまったく知られていない、地図上には存在しているけれど、実際には存在していないような島でした。僕は知人の編集者(※星野智之氏)から、「北海道の東の果てに馬だけがいる島がある」という話を聞いて、とてもひかれるものがあり、この島に興味を持ちはじめました。
けれど、当時は情報もなく、島が国の鳥獣保護区に指定されているので立ち入ることも禁止されていました。僕はテレビ局や新聞社など、何かの会社に属しているわけではないので、上陸するための許可を簡単にもらえるわけでもなく、「写真家の岡田です」と言ったところで、「誰だい?」という対応が長く続き、許可をいただくのに2年かかりました。
福地 2年かかったというのは、関係者の方々にじわじわとご理解をいただけたということだったのでしょうか? それとも、何か急に事態が動くようなきっかけとなる大きな出来事があったのでしょうか?
岡田 許可をもらえなかったのは、鳥獣保護区ということもあるのですが、やはりこの島が背負っている歴史というものが関係していたように思います。戦後、北方領土からの引き揚げや、戦地からの復員で根室へ向かった方が、新たに昆布漁を始めようとしたときに、昆布を干す場所がなかった。それでユルリ島に渡られたという背景があるので、幸せに満ちた歴史というよりは、伏せておきたいものだった、あまり公にはしてほしくないという思いもあったのかもしれません。
そうしたなか、2011年に東日本大震災が起こり、自然もまた永遠ではないということを日々の生活の中で僕が強く感じるようになりました。ユルリ島の写真を残しておくことに価値があるということを、何となくわかってもらえるようになったのは、震災がきっかけだったのかもしれません。
福地 確かにこの島の地図を見てみますと、下のほうに……南の方角でしょうか? 灯台がありますが、これは現役の灯台なんですよね?
岡田 この灯台はいま、ソーラーパネル(太陽光発電)で稼働しています。
福地 あれだけ平べったい島で、霧も深そうな根室の沿岸ですと、灯台の役割というのは大切なものだと思います。一方、地図の北半分のエリアを見ていきますと、いろいろと、かつて人間の営みがあったと思われる場所というものが記されています。養狐場跡……ユルリ島では狐の養殖もやっていたのでしょうか?
岡田 100年ほど前(1916年)に、大津滝三郎さんという方が、ユルリ島で養狐事業(※北日本養狐場)を始められています。
同じ頃に、ユルリ島で馬が放牧されていたという記録も残っています。それを誰が何の目的でされていたのかはわかっていないのですが、おそらく大津さんという方が、馬の放牧もされていたのだろうと僕は思っていて……北海道でバスを最初に走らせたのは、実は根室の大津滝三郎さんなんです。
福地 意外ですね。
岡田 大津滝三郎さん、根室でバス会社を始められる前は、馬を使って運送業をされていたんです。それが、「これからはもう、馬の時代ではない」ということで、おそらく車を買って新たな事業を始められたと思うのですが、そのときに運送業で使っていた馬をユルリ島に連れていって放牧していたのではないかと……これは僕の推測ですが。
福地 そうした歴史がいったん途絶えた後で、この島の周りに残っている番屋の跡……これが今回の馬の作品のシリーズにも関係している存在ですね。番屋とは、漁師さんが一時的に作業する場所といいますか、小屋といいますか、そういったものを指しますが、この根室の沿岸の場合はどのような漁の漁師さんたちが使っていたのでしょうか?
岡田 ユルリ島が昆布の干し場として使われはじめたのは戦後ですが、島に馬が持ち込まれたのは1950年ごろです。当時は今のような港もないですし、車も冷蔵庫も氷もない時代。傷みやすい海産物では商売にならないので、乾きもので運びやすい昆布の干場として沖合のユルリ島が必要とされました。
福地 いま、昆布漁の干場といいますと、浜に綺麗に砂利を敷いて干場にする、というような光景を連想するのですが、この当時は少し昆布干しの形態が違っていたというようにお伺いしたのですが。
岡田 そうですね。ちょうどスクリーンに映っている島影がユルリ島なのですが、島の対岸にある昆布盛という集落から撮られた写真(※昔の昆布漁の様子を写したもの)です。当時は港がないので、漁で舟を出すときは、浜に上げていた舟を人が押して波打ち際まで運んでいました。今のような船を着ける漁港がなかったんですね。
福地 (※スライドを見ながら)これは昆布漁の様子ですね。
岡田 昆布漁は大きな船ではなく、ウニを採るような小さな船で漁をします。採った昆布というのはすぐに干す必要があって、昔は砂浜に干すのが一般的でした。北海道は土地が広いので、「昆布を干すためにわざわざユルリ島へ行く必要があったの?」とよく聞かれるのですが、昆布を干すのに適している砂浜というのは限られていて、干す場所がない人たち(戦後の混乱期に新たに昆布漁を始めた人)が島に渡っていました。
(※スライドが変わる)これも昆布を干している様子を写した昔の写真ですが、やはりこうして見ると、昆布を干すためにはとても広い土地が必要なことがわかりますね。
(※スライドが変わる)写真の左上に当時の馬が写っていますね。“農耕馬”と聞くとどうしても、“畑を耕すために使われていた馬”をイメージしますが、漁業の街では、馬は漁業の動力源として使われていました。
福地 海においても、馬は労働力として活躍していた時代があったというわけですね。
岡田 これもユルリ島の対岸にある昆布盛という集落の昔の写真です。
福地 沖合の右側のほうにあるのがユルリ島でしょうか。
岡田 はい、ユルリ島ですね。
福地 海を背にしている馬がいて、なにやら木でできた大きな道具に漁師さんが馬を繋げようとしているのでしょうか。何か、これから外してもらおうとしているようにも見えますね。
岡田 これは海から舟を浜に引き上げている様子を写した昔の写真で、砂浜の真ん中に写っているのは、木でできた“巻胴”(まきどう)という、舟を浜に引き上げるために使われていた道具です。この巻胴の周りを馬が回ることで、沖合に浮かぶ舟につないだロープが巻き寄せられて、海から舟が浜に引き上げられる仕組みになっています。
福地 この舟を浜に引き上げるために、馬の力を借りていたと。
岡田 当時は農耕だけではなく、舟を浜に引き上げたり、漁業でも馬の力が必要だったということですね。
福地 これは先程の反対側から。でも、海を背にしているので少し違うカットでしょうか。これは舟を引き上げてひと働きした後でしょうか?
岡田 舟を引き上げると、次は昆布を干さなければいけません。馬が巻胴という道具でこの舟を引き上げて、馬が干し場まで昆布を運んでいました。
福地 このような感じで引き上げられて、舟の下には丸太が敷かれていて……。
岡田 当時は昆布を砂浜に干していたので、当然昆布に砂が付くわけで、これは“砂落とし”という作業の様子を写したものなのですが、乾いた昆布はこうして(※切り株のようなものにたたきつけて)砂を落としてから出荷していたようです。
福地 これらの一連の写真というのは、昭和何年頃に撮影されたものなのでしょうか?
岡田 1950~60年代の写真ですね。僕が地域の方を訪ね歩き、何年もかけて集めた写真です。
福地 60年前から70年前ぐらいの、それくらいの時期ですね。
岡田 そうですね。それから昆布の干し方が変わってゆき、石を敷いてその上に昆布を干すようになった。だんだんと今の昆布の生成の仕方に変わっていったようです。
福地 現在、連想している島のイメージに近づいてきましたね。
岡田 こうした石を敷き詰めた新しい形の干場が出てきたので、砂浜以外にも昆布を干せるようになり、ユルリ島の干場としての役割が終わった……というのが、一つの時代の流れです。
(※昆布盛にあった馬の放牧地に石を敷き詰めて新たな干場を造り、島民は対岸の昆布盛へと引き揚げた)
福地 ユルリ島に番屋があった背景として、昆布漁が盛んだった時代に昆布の干場を求めて沖の小島を使うようになった。
岡田 そうですね。砂浜で昆布を干していた時代に、昆布を干す場所がなかった人たちが、土地を求めてユルリ島に渡り、島で昆布を干すようになりました。
福地 先ほどの対岸の浜では馬が労働力として活躍していましたが、当然ユルリ島でも?
岡田 ユルリ島でも同じような工程で昆布を干していたと思います。それともう一つ、ユルリ島は周囲が断崖に囲まれているので、その崖の上に昆布を引き上げるには人の力では到底無理。それで、馬を動力源として島に連れていったという背景もあります。馬がいなくては生活もできない時代や環境だったのでしょう。
福地 崖の上に引き上げるというと、どのような感じで引き上げていたのでしょうか?
岡田 僕も実物を見たことはないのですが、崖の上に鳥居のような形で櫓(やぐら)を組んで、そこに滑車を下げて、ワイヤーを通して。崖の上にいる馬がワイヤーを引っ張れば、崖の下にある網に詰めた昆布がどんどん上がるという。
福地 昔の井戸の滑車のような感じで、馬が片方のワイヤーを引っ張ると、昆布を入れた網が上がるという感じ
岡田 そんなイメージですね。30メートルほどの崖の上にある干場まで昆布を引っ張り上げるという。
福地 当然まとまった量だと思いますが、まだ水揚げしたばかり、漁で採集したばかりの昆布となると、とても重くなりそうですね。
岡田 そうですね。最初に渡ったときは、自分たちの力で上げようとしたらしいのですが、やはり無理だということで、馬を連れていったという背景があります。馬がいなければ生活できない島だった……ある意味で、ユルリ島での生活には、馬は欠かせないものとして存在していたのだと思います。
福地 農業において馬は労働力として使われるようになり、農機具もどんどん進化して手の込んだものになっていきましたが、漁業においても結構手の込んだ仕掛けを使って、馬の力を借りていた。という、そのような感じだったのですね。
岡田 そうですね。当時、使われていたそうした道具の名前も、『エピタフ 幻の島、ユルリの光跡』(インプレス/2023年/※以下『エピタフ』という)という本を作るときに改めて調べ直したのですが、当時のことを知っている方ももう亡くなっていて、調べるのにとても苦労しました。
北海道の歴史の一つではあるのですが、語られてこなかった部分ですね。農業のほうが北海道の場合は記録も残っていますし、“農耕馬”というぐらい、人と馬とが生活の中で密接に関わってきたというイメージがありますけれども、もちろん漁業の街でも、馬との暮らしというのは1960年代までは続いていたのだと思います。
福地 そのような馬たちが活躍している様子も、昔の写真から伝わってきますね。(※スライドを見て)こちらは島ですか?
岡田 これも昔の根室の写真ですが、冬になると湖が凍るので、その氷を大きなのこぎりで切って、荷台に積んで馬で運んでいる様子ですね。
福地 切り出した氷を積んで……。
岡田 “農耕馬”という言葉が持つイメージ以上に、さまざまな場所で馬が活躍していたのだと思います。
福地 そのような馬のことについてもう少しお伺いしたいと思います。ユルリ島にこうした馬が労働力としてやってきた。それはそんなに古い出来事ではないというようにお伺いしたのですが、いつ頃からユルリ島で人が暮らしはじめ、昆布の干場として島が使われるようになったのでしょうか?
岡田 ユルリ島に昆布漁の動力源として馬が渡ったのは1950年ごろです。
福地 戦後になってからですかね。
岡田 ただ、それ以前に島が使われていなかったのかというと、それはただ記録が残っていないだけで、もしかしたらもっと前から人が渡って生活をしていたのかもしれません。僕が調べた限りでは、いわゆる“ユルリ島の馬”のルーツは、1950年ごろに島に馬が連れてゆかれたことから始まります。
福地 なるほど。おそらく漁師さんのほうで人のつながりがあれば、きっと確実に証拠が残っているとは思うのですが、少なくとも記録としてたどることができる範囲では1950年代からですか?
岡田 そうですね。僕がたどり着いたのは1950年です。
福地 こういう姿を見ると、大正時代からとか、そういう連想をしがちですけれど……。
岡田 意外と最近といえば最近ですね。それ以前の歴史は、根室でも語られてこなかったのでしょう。
福地 そうした馬たちの末裔(まつえい)を撮影したのが、今回のユルリ島の作品、シリーズということになります。では、もう少し馬のことについてお伺いしたいと思います。
こうした「馬が島に渡る」という言葉を耳にすると、何かすんなりと聞いてしまいがちですが、馬が自分から好き好んで泳いでいったりはしませんよね。どのようにして島に馬を連れていったのでしょうか?
岡田 今のような大きな船があるわけでもないですし、エンジンも付いていないような櫓漕ぎの舟に馬を積んでいったと聞いています。櫓を漕いで海を渡るわけですから、それは相当大変なことだったと思います。
馬を島に連れていったときの資料は残っていないのですが、島から馬を運び出すときの昔の写真は見つけることができて……。(※パソコンを操作して写真を探す)
ユルリ島は1970年ごろに無人島となり、その後は馬だけが島に残されるという環境になるのですが、自然交配を続ける中で雄馬が生まれると、その馬は必ず間引きされていました。なぜ間引きする必要があったのかというと、馬という動物は例えば20頭、30頭ぐらいの群れであれば、雄馬は1頭いればよい。馬は親も子も関係ないので、放っておくとどんどん血が濃くなってしまう……雄馬は間引かなければいけないというわけです。
そして、ユルリ島で間引きするためには、馬の扱いに慣れた人たちが島に渡って馬を捕まえる必要があるのですが、草原の上を自由に駆けている馬を簡単に捕まえることなどできるわけもなく、どうするのかというと、島にある唯一の浜、“カショノ浜”という浜辺に馬を追い込むのです。
福地 (※スライドを見て)これは岡田さんが撮影されたものですか?
岡田 これは僕が撮ったものではなく、おそらく1970年代に撮られたものだと思います。僕が探し出して、その方から譲り受けたものです。
福地 どこかに連れて行かれるところですか?
岡田 これは人が馬の行く手を遮って、カショノ浜に馬を追い込んで、間引きする雄馬を掛け縄で捕まえる場面ですね。
写真の右上に沖合に浮かぶ船が写っていますが、この船に馬を積んで根室まで運ばなければいけません。ただ、ユルリ島には港がないので、馬を積めるような大きな船は島に接岸できません。ですから、沖合で待つ船に馬を積むには200メートルほど馬を泳がせる必要があります。
福地 島唯一の浜に、群れごと追い立てていく……。
(※スライドを見ながら)島の周りは断崖絶壁が広がっていますが、この場所だったら先ほどのような丘のような斜面になっていて、馬が下りていける場所なんですね。
岡田 カショノ浜まで追い込むと、馬も逃げる場所がないので、掛け縄で馬を捕まえることができる。
福地 浜辺に集まってきた馬たちが、逃げて海に入ってしまうのですね。
岡田 馬も捕まれば連れてゆかれることをわかっているので、必死になって逃げるようです。命懸けで逃げていますね。
福地 小船が浜辺に着いていますね。
岡田 これは昆布を採るような小さな船なので浜に接岸できるのですが、この船に馬を沿わせるようにして、海を泳がせて沖合で待つ大きな船の所まで連れてゆくということをしていたそうです。
福地 さすがにこの船に積むというわけには、いかないですよね。
岡田 この小さな船に馬を積んだら、人の命が危ないですからね。
福地 馬がつぶしそうですね。沿わせて一緒に泳がせて、という感じなんですかね。
岡田 そうですね。ユルリ島の馬はもちろん馬具をつけているわけではないので、そのままでは扱えません。ですから、まずは掛け縄で馬を捕まえる必要があって、それから馬具をつけて扱えるようにしていたそうです。
福地 掛け縄をかけて……。
岡田 (※スライドを示して)これが掛け縄で捕まえられた馬ですね。
福地 雄の馬ですか?
岡田 雄馬ですね。一歳馬(※明けて二歳)ですね。
福地 結構人数がいますね。
岡田 当時は10人ぐらいで間引きしていたと聞いています。
福地 (※スライドを見て)掛け縄に捕まった雄馬ですか?
岡田 はい。ロープ一本で馬を捕まえていたそうです。
(※スライドが変わる)これは海を泳がせているところですね。
福地 なるほどですね。本当に馬と並行して小船が進んでいるという感じですね。
岡田 訓練されている馬でもなく、海を泳いだこともない馬なので、よほど漁師の方が馬の扱いに慣れていないと、こんなことはできないわけで。今はもう失われてしまった技術だと思います。
福地 なるほど。
(※スライドを見て)300メートルまではないですか……。
岡田 沖合で待つ船までは200メートルぐらい離れているので、その距離を泳がせて、馬が溺れないように人が助けながら。
福地 そして漁船に乗せる。
岡田 そうですね。
(※スライドを示して)沖合で待つ船の所まで泳げば、クレーンで馬をつり上げて、船に積み込むという。
福地 結構クレーンに積めるような感じになってますね、縛られて。
岡田 馬の胴体には“モッコ”という、ロープを網状に編んだような運搬用具がつけられていて、馬に負担をかけずにクレーンで海から馬をつり上げるためのものなのですが、こうした特殊な技術が“昆布盛”という小さな集落で受け継がれていたからこそできたことなのだと思います。
福地 なるほど、先ほどの比較的大きな船に積まれたということですね。これで、対岸まで進んでいくと……。
岡田 逆に、ユルリ島に馬を連れてゆくときは、こうして馬を船に積んで、島の近くまでゆけば後は海を泳がせていたのでしょう。
福地 到着したときも似たような感じですね。北海道側のほうは港がありますから、下ろしやすいでしょうけれども……。
岡田 根室側には港ができましたが、ユルリ島には港がないので、島に連れてゆくときも、島から運び出すときも、海を泳がせていたということですね。
福地 こうして連れて行くのは結構大変ですね。
岡田 ですから、こんなことを北海道の漁師の方なら誰でもできるというわけではなく、根室の昆布盛という小さな集落の、それもその集落の中でも一部の漁師の方にしかできない……その漁師の方も既に70代、80代になっているので、おそらくこうしたことはもうできないだろうと思います。
福地 そうして連れていかれたユルリ島の馬たちなんですけれど、特に品種とか、そういうものというのはまとまった傾向があったのでしょうか?
岡田 いや、十勝にいる“ばん馬”(※ばんえい競馬で走る馬)と同じような品種ですね。
もともと北海道には馬はいなかったのですが、江戸時代に東北の漁師の方が南部馬を連れてきたのが始まりだといわれています。例えば、昆布漁の時期になると、南部馬を連れて北海道(※当時は蝦夷地)にやってきた東北の漁師の方が、漁期が終わると使い終わった馬を野に放って帰っていった。そして野生化して生き残った馬の子孫が、やがて“道産子”(※北海道和種)と呼ばれるようになるのですが……。
ただ、道産子は馬体が小さい馬なので、どうしても動力源としては力が足りない。それで北海道を開拓するにあたり(※あるいは軍馬を生産するために)、ヨーロッパからペルシュロンやブルトンといった大きな種の雄馬を輸入して、道産子と交配させ、北海道の開拓に適した馬を生産するようになったそうです。その末裔がユルリ島の馬であり、そういった意味では、十勝の馬もユルリ島の馬と同じような品種ではありますね。
福地 ユルリ島の番屋は夏だけ人が居住して、ということになるかと思うんですけれども、昆布漁がない時期というのは、馬は島に放牧されていたという暮らしをしていたのでしょうか?
岡田 冬もそのままです。もちろん冬山造材(※木を切り出して丸太に加工する作業)など、漁期が終わった後に違う仕事で馬を使っていたときには連れてきていたようですが、そういった馬を使う仕事がなくなったときに、馬を置いてくるようになったそうです。
福地 間引きで北海道に戻された馬たちもいれば、島に投入される馬もいたということではあると思うのですが、そうなるとやっぱり当時道東に馬産地があって、そういったところから来た馬たちが島に渡った、もしくは戻っていったっていうことなんでしょうか?
岡田 そうですね、根室にかつて佐藤牧場という牧場があって、その牧場の方がユルリ島の馬の血脈の管理というか、あまり血が濃くならないように、ある程度は手を加えていたようです。そうしたことは、ずっとされていたようですね。
福地 先ほど、昆布漁の労働力として馬が活躍していたということなのですが、今はもう無人島になっています。無人島になってしまったのは1970年(昭和45年)ごろ、ちょうど日勝が亡くなった年と同じです。岡田さんは馬の撮影を始めたのが2011年ごろでしたので、そこから40年近い年月が経過したわけですが、その間馬たちは完全に放っておかれて野生化している状態となったのでしょうか?
岡田 1970年ごろに人が去って無人島となり、馬は島に残されました。その後は人が手を加えることはほぼなく、雄馬が生まれたら近親交配をしないように間引きする程度でした。
福地 ある意味、本当に自然に任せてしまうのでしたら、馬を全部引き揚げたほうが多分楽なので、わざわざ漁師さんたちがそのようにして馬の管理をしていたというのは、大変興味深いところではあります。
岡田 かつて馬と共に暮らしていた元島民の方が、“馬のいる島”を続けたかったのでしょう。僕もその理由を尋ねたことがあるのですが、財産としての資産価値があったわけでもないようで、「商売のためだよ」と言われれば誰もが納得すると思うのですが、そうではなくて個人的な楽しみのために続けていたようですね。
福地 観光振興とかいう視点がもしあったとしたら、もっといっぱい宣伝されてておかしくないところ、まったくといっていいほど、外の人に知られていなかったといったことだったのですよね。
岡田 そうですね。ですから例えば、僕がユルリ島に興味を持ちはじめた頃は、根室の方にユルリ島のことを尋ねても、馬がいることを知らない方が結構いました。馬がいることを知っていても、ほとんどの方がその理由を知らないという現状でした。
福地 そうしたなかでやがて、間引きもおこなわれなくなっていった、というようにお聞きしたのですが。
岡田 人が去った後も、“馬のいる島”は続いていたのですが、元島民の方も高齢になり、雄馬を間引きすることができなくなった。それで、2006年に雄馬を全て島から引き揚げたそうです。雌馬だけを島に残して、このまま馬がいなくなるのを見届けようと、元島民の方で話し合って決めたようです。
福地 普通に間引きをおこなわなかったら繁殖して増えますけれども、雄だけ全部引き揚げたのですか?
岡田 繁殖しないように雄馬を全部引き揚げて、雌馬だけを島に残したそうです。
福地 そのときは全部で何頭ぐらいいたのでしょうか?
岡田 記憶が定かではないのですが、18頭だった気がします。20頭はいなかったですね。18頭いた馬から種馬を含む4頭が間引きされて、14頭の雌馬だけが島に残されました。
福地 その後5年の歳月が経って、2011年に岡田さんが初めて上陸されました。そのとき島に居たのは12頭でしたか?
岡田 はい、僕が初めて島に渡った2011年には12頭の雌馬がいました。
福地 こうした隔絶された環境の島で生きている馬たち、ということばから、特に根室の冬はたいへん過酷な気候ですし、厳しい環境にいる印象を感じてしまうのですが、岡田さんの作品の馬たちは、結構丸々として栄養状態が良さそうな感じの馬たちですね。
岡田 そうですね。僕も島に渡る前は、痩せこけた馬がいるんじゃないかと思っていたのですが、太っている馬たちがいたので驚きました。それこそ餌や水もそうですが、人の手を離れた環境で、馬がどうやって生きているのかがわからなかったので。
福地 実際の写真を見てみても、特に正面から撮ったアングルの馬などを見ると、縦横の比率が本当にこれで合ってるんでしょうかって心配になってくるぐらい、馬が横に広がって見えるような感じがするんですが。
岡田 やはり胴体の大きさが、人に飼われている馬よりもずっと大きいですね。
福地 サラブレッドとかと比べると脚が短めなので、ますますそういうところが目立ちます。
岡田 そうですね。やはり速く走るために生まれた馬ではないので。漁業や農業に適した力の強い馬、それでいて温厚な馬なので、北海道の人たちにとっては扱いやすい馬だったのだろうと思います。
福地 神田日勝の初期の作品の《痩馬》(1956年)とか、こちらも今回展覧会で展示されていますが、《痩馬》の翌年に描かれて平原社賞を受賞した20歳のときの作品である《馬》(1957年/No.2)とかと比べると、本当に対照的ですね。
岡田 そうですね。対照的ですが、多くの方がイメージされるものとは真逆かもしれませんね。人に飼われている馬のほうが幸せそうに太っていて、無人島にいる馬は痩せこけている……そうイメージされる方のほうが多いと思うのですが、ユルリ島に渡ってみると逆だったといいますか、僕もそのことには驚きました。
福地 お二人とも、何か一般的なイメージとは違う現実というものを、それぞれ全然違うところから表現しているというところが興味深く感じているところでございます。そういった馬の体格といったこと以外の点で、初めて馬たちに会ったときの印象というのは、ご記憶がありますでしょうか?
岡田 僕は当時、馬という生き物にあまり詳しくなかったのですが、とにかくユルリ島の馬の澄んだ眼が印象的でしたね。人が足を踏み入れてはいけない聖域に来てしまった……そんな感覚になりました。
本当に汚れのない生き物を眼の前にしたときに、その澄んだ瞳に映る自分の姿を見てなんて汚れているのだろうかと驚くぐらい……近づくと汚してしまうような印象を受けました。もちろん、今でもそういった気持ちがあるので、意味もなく僕が島に渡ることはありませんし、基本的に僕を含めて人間が立ち入らないほうがよい島だと思っています。
福地 あまり人間を怖がったりしないというような……。
岡田 確かにそうですね。人間に嫌なことをされたことのない生き物の眼をしていました。ユルリ島の馬は警戒心があまりないですね。疑いを持ったことのないような眼。野生動物と森で出くわせば、人間は敵だと思われて逃げられますが、ユルリ島の馬は触れるほど近づいてくることはないけれど、島に外敵もいないので、逃げることもしないですね。
福地 なるほど。そうすると、これは飼育されていた頃の馬たちなんですけれども、先ほど伺った話ですと、冬の間は放し飼いされていたので、過去の写真や地図を見てみると、馬小屋とかは特になかったということでしょうか?
岡田 人が暮らしていた頃から、島に馬小屋はなかったようですね。
福地 そうすると、ずっと常に放牧されている状態だったということですか?
岡田 そうですね。常に放牧されていて、逆に小屋に入れたり、ロープでつないだりすると、ストレスがたまって痩せてしまうから駄目だと。人はどうしても人間が手をかけたほうが馬も幸せだと思ってしまいますが、人間もつながれればストレスがたまるわけで、馬も自由なほうがよいのでしょうね。おなかがすけば草を食べるし、喉が渇けば沢の水を飲みに行きますし、そういった意味では何者にも縛られることのない自由な環境ですね。
福地 飼育するほうも手がかからないのですね。
岡田 そうですね。
福地 ここで一つ疑問が思い浮かぶんですけれども、馬は労働力として連れてきたんですよね。例えば昆布を引き上げるとか。ユルリ島は餌がいっぱいあって、馬にとっては理想的な環境で、どうやって仕事させていたんでしょうか? 放牧しているところから連れてくると思うんですけれど、すんなり素直に付いてきてくれるものだったんでしょうかね?
岡田 やはり逃げるようですね。漁が始まる前に、放牧されている馬を捕まえるのが子どもたちの仕事で、子どもにとっては自分よりもかなり大きな動物ですし、逃げれば脚も速いので大変だったと思いますよ。
福地 子どものほうが懐くとか、そういうことがあったんでしょうか? よく、犬とか猫ですと、小っちゃい子だったら連れてくるというようなこともありますけれど。
岡田 あまりそういった感覚は……もちろんかわいがっていたとは思うのですが、やはりペットではないということをおっしゃっていましたね。
福地 じゃあ家畜ですね。
岡田 暮らしを共にしていた友ではあるけれど、家畜。ですから当時の北海道では、馬が亡くなれば食べて供養したという話もよく耳にしますし、そういった意味では、僕なんかは馬で農耕をしていた時代を実際には知らないので、想像することしかできないのですが、それでも当時の家畜という生き物の存在というか、人間との関係性というのは、その時代を生きた人たちにしかわかり得ないものがあるのだろうなと思っています。
福地 そうした馬たちの子孫が作品になっている。岡田さんがユルリ島の馬たちを初めて撮りはじめたのが今から12年前ですね。
岡田 そうですね。12年前です。最初に島に渡った2011年には馬が12頭いました。すでに絶えることが運命づけられた存在であったので、その馬たちの最後を見届けようと思い、写真を撮りはじめたのがきっかけです。
福地 といっても、ユルリ島は簡単に行ける場所ではないわけで、最初に渡航したときってどのようにして渡ったんでしょうか?
岡田 定期船があるわけではないので、漁師の方にお願いして船で連れていってもらいました。
福地 漁船に乗せてもらうわけですね。
岡田 スクリーンに映っているのは、2011年に初めてユルリ島に渡ったときの映像です。昆布盛の港から船が出航して、防波堤を過ぎて右へ曲がると……(※映像を見入る)。
福地 港を出たところですね。見えてきました、見えてきました。
岡田 右側に見える島影がユルリ島ですね。こうして見ると、とても近くにあるように感じますね。エンジン付きの船であれば、島に最も近い昆布盛の港からは15分ほどで着くのではないでしょうか。
福地 行くだけだったら、今だったら比較的……。
岡田 楽ですけれど、船の手配をして、天候にも恵まれなければいけません。
(※映像が変わる)これが初めて島に上陸したときです。
福地 12頭近く、全部いますか?
岡田 12頭いますね。中心に映っている芦毛(※灰色の馬)が群れのリーダーで、僕はこの馬をメインに写真を撮ってきました。ですから、僕の作品によく登場する白い馬(※年齢を重ねて灰色から白へと毛色が変化した)はこの馬で、今回の展覧会のメインビジュアルで使用した写真にも写っていますが、それは全部この馬です。
福地 群れだからリーダーがいるはずで、『エピタフ』の写真集も、過去に発表された写真も、確かにこのグレーの顔のお馬さんがよく写ってるような印象があったんですが、リーダーをまず被写体にして追っていったということなんですね。
岡田 ひときわ輝いていたので、心を奪われたというのが一番の理由ですね。
もう一つは、僕も馬に詳しくなかったので、最初は12頭を見分けることができませんでした。それはおそらく、僕の作品を見てくれる方の多くも同じであろうと……。どこにでもいる馬ではなく、“ユルリ島の馬”として認識されるようになるためには、人の記憶に残る象徴的なイメージがこの作品には必要だと思いました。
福地 なるほど。
岡田 ユルリ島の馬の血脈を受け継いでいる子孫は、もう残り2頭しかいないのですが、そのうちの1頭がその白い馬です。偶然ですが、メインで撮っていた馬が最後まで生きていたということも、ユルリ島の作品の在り方に影響を与えていると思います。
福地 残りの10頭っていうのは、またちょっと違う血統なんですか?
岡田 ほかの馬はみんな茶色でしたね。基本的にユルリ島の馬は茶色で、過去の写真を見てもそうです。なぜ最後に生き残った馬が白いのか、僕も理由はわからないのですが、元島民の方に話を聞いても「白い馬はいなかった」とおっしゃっていました。
福地 その後、増えた馬たちの中に、白い馬が……。
岡田 芦毛の馬の遺伝子が残っていたのかもしれませんね。
ただやはり、この島の馬の存在を人の記憶の中に留めたいと思い、その象徴的な存在として白い馬の写真を中心に撮ってきたので、たとえ偶然だったとしても、その白い馬が最後まで生き残ったということは、この先、この島の馬の歴史が“歴史”として認識されてゆくのかどうかということにも影響を与えてゆくだろうと思っています。
福地 そうした馬たちの姿を見てみますと、意図的に非常に遠くから撮っているものもあれば、非常に寄って、本当すぐそばで撮っていらっしゃるんじゃないか、というような作品もお見受けしたんですが、馬の距離感の取り方っていうのは、いかがでしたでしょうか?
岡田 僕が上陸することでこの島を汚したくないというか、この島に流れている時間を乱したくないという思いがあるので、あまりこちらから無理に近づいたり、馬にストレスを与えるような撮影はしないように心がけていました。ただ、これぐらいかな? 3メートルぐらいまで僕が近づいても逃げたりはしないですよ。
福地 野生動物で3メートルっていうのは、すごい近いですね。
岡田 これぐらいの距離(※壇上で二人が話している距離)までは近づけますよ。ただ、僕が何をしているのかは、まったくわかっていないでしょうね。
福地 なるほど。でもきっと、敵意はないってわかってるんでしょうね。
今回の展覧会は、神田日勝の作品と対比させるような形で展示されていますけれども、日勝の描く“馬”っていうのは、今回の出品作品、非常に毛並みの表現が緻密に描かれていますが、岡田さんの作品も非常に一頭一頭の毛並みのディテール、テクスチャー、感触がわかるように撮られていまして、すごいのはそれが、幅1メートル以上の大きなサイズのプリントになっても、非常にはっきり鮮明にわかるっていうところかなと思います。
そういう撮り方ができるって、よほど寄って撮らなければいけないのかなと思いまして、やっぱり3メートルは近づいているのですよね?
岡田 そうですね。近づいて撮影しています。
福地 そうすると、10年も撮り続けてると、馬の感情とか表情とか機嫌っていうのは、わかんないですか?
岡田 最初は12頭の馬が同じように見えたのですが、やはりそれぞれ個性があって、警戒心の強い馬もいれば、近づいても逃げない馬もいて、それぞれの馬に適した距離というか……接し方があって。僕が勝手に思っているだけのことですが、その馬の性格もわかってくるので、最初は単なる被写体として向き合っていた馬が、だんだん自分の中で特別な存在になってゆく、そんな感覚はありましたね。
福地 馬を撮り続けた12年間で、表現上具体的に変化したことはありますか?
岡田 変化というか、そうですね……。
福地 ……どちらかというと、最初の頃の作品というのは、馬のポートレート、もしくは、その生きる環境っていう、はっきり分れていた印象を感じました。ところが、だんだん進んでいくと、ポートレートであり生きてる環境の描写にもなるというような流れ、1点の作品でありながら異なる要素を持っているような表現という印象を感じます。
岡田 最初はポートレートのような意識で撮っていましたね。けれど、歳月を重ねることで作品を残す意味が変わってゆきました。
僕が島に渡って最初にすることは、馬の頭数を数えることなんです。当然、馬の数は減ってゆくので、馬がいなくなれば、その亡きがらを探します。そうしたことをしているうちに、ユルリ島で馬の写真を撮って、その姿をただ作品として残すことだけではなく、彼らがなぜそこに存在していたのか、その意義や歴史までをも作品と一緒に残してあげたいと思うようになりました。
やはり10年という長い時間、島の馬と向き合ってきましたし、上陸して姿を見せない馬がいれば、2日も3日もかけてその馬を探します。1頭、また1頭と亡くなってゆくのを見続けていると、自分が芸術家として何かほかにしてあげられることはないだろうか……ということを考えるようになりました。
福地 今回特に印象的だったのが、展示のなかに馬の亡き骸、土に還っていく途中の馬の作品がありまして、これは、去年の始めに帯広美術館で開催された「道東アートファイル2022・道東新時代」展のときにも出品されていた作品なのですが、今回の展示では非常に大きくプリントし直されていましたよね。
岡田 2017年の2月に撮った写真ですね。上陸したときに姿を見せない馬がいて、撮影の初日は見つけられなくて……あの作品は、真冬の夜に一人で何時間もかけてあの馬を探していたときに、明け方になってその馬の亡きがらを見つけて撮ったものです。写真を撮りながら、なぜかふと日勝の《死馬》(1965年/No.13)という作品を思い出しました。子どものときに日勝の《死馬》を初めて見たときは、日勝がどうして死んだ馬の絵を描いたのか、その意味や動機がわからなかったのですが、あの写真を撮っているときに、日勝の気持ちが少しだけわかったような気がしました。
僕も決して死んだ馬を撮りたくて、ユルリ島に通っているわけではなく、消えてゆくものと向き合うことで、その先に見えてくるものが何なのかを知りたくて始めた活動です。日勝も死んだ馬の絵を描きたかったわけではなく、その絵を描くことを通して、向き合いたいものがあったのだと思います。日勝の《死馬》の絵の隣に、ユルリ島の死馬の写真を並べたいというのは、今回の展覧会のお話をいただいたときに最初に考えたことですね。
本当は日勝の《死馬》と大きさを合わせて隣に並べたかったのですが、写真の用紙のサイズに限界があって、日勝の作品より少しだけ小さくなってしまいました。
福地 ここまで大きくすると、日勝の作品とサイズ的には拮抗(きっこう)する形ですね。
岡田 僕は死んだ馬の写真を撮っていて、日勝は死んだ馬の絵を描いていますが、互いが作品を作ることを通して向き合おうとしていたものは、とても近かったように感じています。
福地 生きてる馬たちの姿を撮り続けていくということは、一つのシリーズを作っていく上で、先に命を全うした馬の姿を撮ることでもあって、ある意味必然だった……。日勝が《痩馬》で十勝の人たちに知られるようになって、その後、馬だったり牛だったりの姿というものを描き続けてきたわけですけれども、彼らもやがて命を全うする。そうすると……やっぱりちょっとうまく説明しづらいんですけれども……その姿を描くっていうのが、なにか日勝にとっては必然だったのではないかなと思いますね。
岡田 神田日勝といえば“北海道を代表する画家”とよくいわれますが、もともとは東京で生まれた方で、戦火を逃れるために7歳のときに鹿追に入植しています。北海道に入植した頃の生活は、日勝にとって何もかも驚きだったと思うんですよね。当時は飼っている家畜が亡くなれば、食べて供養した時代ですし、そういった東京では経験したことがなかったであろう日々の生活の中で、日勝にとっての大きな衝撃が、彼の死生感を育んでいったと思うんです。その死生観は当然、作品に反映される。逆にいうと、日勝が北海道で生まれていたとしたら、《死馬》や《牛》(1964年/No.6)は描かなかったような気がするんですよね。
福地 日勝が鹿追に渡ったのは7歳のときですが、比較できる視点・記憶っていうのは多分持っている年頃ですよね。
岡田 だからそういった、鹿追という土地で生きてゆく過程で育まれた死生観というものが、彼の絵の中には宿っているように感じますね。
僕は北海道で生まれ育ったのですが、ずっと北海道で暮らしていたら、ユルリ島の写真はおそらく撮らなかったと思うんです。東京に出たからこそ、北海道の風土や特異性に気づいたわけで、そういった意味でも、作家が生まれた場所や暮らしている土地というのは、その作家の創作活動に大きな影響を与えているのだと思います。
福地 今回の展覧会ではお話された通り、神田日勝の作品と呼応するような形、対比できるような形で作品を交互に展示されていると思います。
そうした日勝の死生観が現れたような作品の中に、馬じゃないですけど、《牛》という作品がありましたよね。……ちょっと画像を出すことはできますか?
(※スクリーンに表示)はい、こちらは死んだ牛を描いてますけれど、これはおなかを切り開いていますよね。内臓を見せて。これは死んだ牛の内臓にガスがたまるのを防ぐ、そしていずれ食料にするなりなんなりっていうことも考えてのこと、というふうにお伺いしましたが、これは岡田さんの目には、瞳にも見えたと?
岡田 そうですね。この赤い傷というか、牛の腹を裂いた部分が、僕には人間の眼のように見えました。今回の展覧会は僕のそうした日勝の絵に対する解釈を交えながら、展示の構成を考えています。
最初は全てユルリ島の写真と日勝の絵で構成しようと思っていたんですよね。展覧会のお話をいただいてから、日勝の作品集を全部カラーコピーして、事務所の壁一面に張り巡らせて、何カ月もの間ずっと眺めていました。しばらくして、僕なりに日勝の絵を少しは解釈できるようになってから、日勝の絵の隣にユルリ島の写真を加えていって、どういう展示構成にしようか考えはじめたのですが、どうもうまくいかない。僕の中で何かが足りないという感覚があって、その足りないものが何なのかずっと考えていたのですが、一つのことに気がついて、日勝がその絵を描いたときの年齢を、カラーコピーしたそれぞれの作品に書いてゆきました。
僕のユルリ島の作品は、僕が30代になってから創作したものなのですが、いつのまにか僕は日勝より10歳ぐらい年齢を重ねてしまっていた……やはり作家というのは、その年齢によって向き合いたいと思うものや、向き合えるものが決まっていて、若くして亡くなった日勝と今の僕との年齢差から生じるズレのようなものを埋めることが最初は難しかったです。それで、日勝が《死馬》や《牛》を描いていた20代の後半に、自分がどんな写真を撮っていたのかを改めて振り返ってみて、日勝と同じ年齢の頃に自分が撮った作品を加えてみたんです。そうすると、それまでバラバラであった僕の写真と日勝の絵が、急に呼応しはじめたような感覚が僕の中に芽生えました。
ですから最初は馬の写真だけで展覧会をしようと思っていたのですが、やはり僕が日勝と同じ年齢の頃に向き合っていたものが必要だなと感じて、ユルリ島の写真だけではなく、僕が20代の頃に撮影した作品も展示の構成の中に加えることにしました。そのほうが、お互いが作品を作ることを通して向き合おうとしていたものがより明確に現れる。そういった意図もあり、赤く裂かれた腹が印象的な日勝の《牛》という作品の次に、腕に傷がある女性のヌードの作品《THE WORLD 2007》(2007年/作品No.8~10)を飾ったりしています。瞳の写真《THE WORLD 2008》(2008年/作品No.3)の隣の壁面に、裂かれた腹が人間の眼のように見えた《牛》を飾ったのも、互いの作品が会場で呼応することを意識しました。
福地 もう単純に馬の作品のコラボというものを超えて、結果として、岡田さんが日勝という画家に向き合うことに、一人の人間に向き合うことになったという結果になって、今の展示になったっていうことなんですね。
岡田 僕は25年ほど写真を撮っていて、被写体は年齢によって変化していますが、その被写体を通して自分が向き合おうとしているもの、あるいは表現しようとしているものは、そんなに大きく変わっていないように感じています。ただどの被写体を通して向き合おうとしているのかが変わるだけ。像として現れるものが変化しているだけで、おそらく日勝もそういう作家だったと思うんです。だから、馬の絵を描いていても、ゴミ箱の絵を描いていても、彼の中で絵を描くことを通して向き合おうとしていたものが変わらなかったからこそ、それが作風として現れているのだと思います。今回の展覧会では、そうした作家の本質的なものが現れた展示になっていたらよいなと思っています。
福地 そういう意味では、お互いのコラボレーションというよりは、展覧会としては必ずしも日勝さんの画業をたどるものでもないと思いますし、岡田さんの写真家としてのキャリアを紹介するというものでもなくて、“馬”という形で一つの世界を作っているというところはあると思います。
福地 そういう意味では、これは今回出品されていなかったのですけれども、日勝の馬を描いた作品のなかでちょっと重要なものが一つあります。《晴れた日の風景》(1968年)です(※スクリーンに表示)。
こちらは神田日勝記念美術館さんの所蔵作品で《晴れた日の風景》という、1968年(昭和43年)の作品です。有名な作品とちょっと作風が違っています。この作品を描いた当時、日勝さんっていうのは、自分の作風を変えていこうという、非常に色彩の表現が強烈なものになっています。形も、今までの写実的なものから比べると、あえて省略を利かせているといった感じで、形がはっきりしない。「アンフォルメル」という言い方も当時はしていましたけれども、そういうことが特徴になっています。
これ以外にも、牛を描いた作品だったり、人の姿をこういうふうに描いた作品がいくつもあって、そういった作品は北海道立近代美術館や北海道立帯広美術館などに所蔵されているのですけども、注目したいのは、こういういろいろな画風の変遷があっても、常に“馬”がそばにいたといいますか、馬を描き続けてきたってことなんですね。
最初の《痩馬》行きましょうか(※スクリーンに表示)。翻って見ますと、一番に平原社のデビュー作の《痩馬》。そして次の作品に行きます。今回出品されています、神田日勝記念美術館さん所蔵の《馬》、そして《死馬》ですね。次に《牛》、そして昭和40年に描かれた《馬》(1965年/No.15)。この辺になってきますと、おなかの所がちょっと毛がはげて薄くなってますけれど、これは馬具を付けて擦れてもう毛が薄くなった、そういう生活感がある描写をしています。こういった馬のそばに、結構散らかったガラス瓶だったり、ホーローの缶だったり、一斗缶だったり、きっとわざとこういうふうに絵画的な表現として散らかしてると思うんですけれども、失われていくもの、朽ち果てていくものが一緒に描かれたりしています。
そして次が、これが北鹿追神社に奉納された“絵馬”として描かれた《開拓の馬》です(※スクリーンに表示)。絵馬として描かれているので、整って描かれていますね。ビール瓶とかが転がってない。ですが、おなかの所を見てみると、やはり馬具をつけて、当たって擦れて毛が薄くなっている部分とか、開拓の生活感のある描写がされています。
ちょうどこの頃でしたか、日勝さんの家でもトラクターを導入して使うようになった。要するに農業の機械化が進んでいく、馬っていうものが日常の労働力でなくなっていく、というときに描かれていったのが、先ほどの《晴れた日の風景》ですね。ですので、ディテールというものがなくなっていきます。
再び写実的な作風に回帰していって、未完の馬、《馬(絶筆・未完)》(1970年/No.11)の作品につながっていくわけなんですけれども、こう見ていくと、神田日勝の作品のなかにはデビューのときから最晩年まで、《馬(絶筆・未完)》に至るまで、常に“馬”というものの存在があった。それが社会の変化や移り変わりに応じて、日常の労働力からある意味で象徴的な存在に移り変わっていったということが見て取れるかと思います。 そうしますと一方で岡田さんの作品なんですけど、これまでに発表されている作品の中で一番制作年代が早いのが、やはり“馬”の表現だったというふうに伺っているんですが。
岡田 僕が写真を撮りはじめたのは1999年で、その頃に撮影した作品をまとめた写真集『1999』(ナガトモ/2015年)に実は“馬”が写っています(※スクリーンに表示)。僕の実家は札幌にあって、この写真は19歳の頃に実家の近くにある乗馬クラブで写したものなのですが、写っている馬の頭数や、白い馬が中心に写っていることなど、図らずもユルリ島の馬と重なって見えるということに、昨日初めて気づきました。
福地 このときは、馬を撮ろうとしたきっかけっていうのは、どういうことだったのですか?
岡田 馬を撮ろうという意識はあまりなかったのですが、僕が19歳の頃というのは、自分が育った札幌から、写真家を志して大阪の大学へ進学する年でした。そういった意味で、自分から遠のいてゆくものを写真として残しておこうと思い、馬だけではなく、その頃の友人や近所の風景を撮っていました。その中に馬の姿が写っていた……。“消えゆくもの”ということではないのですが、自分が大人になる過程で、自分の中から離れてしまうもの、遠のいてしまうものを残した作品ですね。
福地 では、ユルリ島の馬たちもいずれ“消えてゆく”であろうものですけれど、少し意味合いが違うのですか?
岡田 そうですね。僕は写真を撮るという行為は基本的に“永遠に対する憧れ”のようなものだと思っていて、永遠に続くものであれば撮る必要がない。消えゆくものであるからこそ写真を残すことに意味があるし、それがただの記録写真ではなく、芸術作品として残ることに新たな価値が生まれるのだと思っています。
例えば、今回のユルリ島の展示作品が10年後、あるいは50年後にどこかの美術館でまた飾られることがあれば、「無人島になぜ馬がいたのだろう?」ということに興味を持ってくれる人が現れるかもしれない。そんなふうに、ユルリ島や根室の歴史、北海道における人と馬との営みの歴史までもが僕の作品と一緒に残ってゆけば、それは僕の最初の動機が単にユルリ島の馬の命とただ向き合いたいということだけであったとしても、何かしら意味のあることにつながるのかもしれない。日勝の作品が彼の意図を超えて“鹿追”という土地の歴史を語りはじめたように、僕のユルリ島の作品もそうなったらよいなと思っています。
福地 そうした作品というのは、単に馬だけではなくて、そうしてたどってきた歴史とか風土というものも一緒に織り込んで写し出すという印象を感じるのですが、そうしたなかで、意図的に表現されているんじゃないかと感じたことがありまして、日勝の作品は非常に大地の褐色の色をベースにした作品が多いのですが、岡田さんの今回の馬のシリーズの中で“青”色を結構ベースにしている作品が多く感じられました。決して他のシリーズで多く使っているとも限らない色ですけど、今回のユルリ島の馬を表現するのに意図的に“青”っていうのを用いたのかなと読解したのですが。
岡田 もちろん意識しています。新しい作品を撮りはじめるときはどんな作品でもそうですが、どういう色がこの作品には適しているのか、どういうコントラストが良いのかを考えます。ユルリ島の馬は、僕が出会ったときにはすでに“絶えることが運命づけられた存在”であったので、暖色系の作品にはならないことはわかっていました。はかなくも美しい作品にしたいと思ったときに、やはり“青”と“白”という色はユルリ島の作品を作る上で重要なポイントとなりました。
とはいえ、写真というものは、あまり芸術だとは思われていない。ユルリ島に行けば、誰でも同じ写真が撮れると思われている。
福地 それはすごい誤解ですね。
岡田 ただやはり、写真というものはそんなに簡単なものではなくて、例えばその作品に適した色、適した質感というものが必ずあって、自分が伝えたいものや表現したいものによって、そうした細かなことが変わってゆく。
ユルリ島で作品を作ろうと思ったときも、あくまでもそれは創作活動なので、作品をどのような形で残すのかということは、さまざまな角度から考えました。“青”というのは、一つの重要な要素となりましたね。
福地 そうした“青”を多用していくということを意図的に推し進めていった表現が、確かユルリ島の馬のシリーズから派生した写真集にもありますけど、紹介してもよろしいでしょうか?
岡田 はい。
福地 神田日勝記念美術館の受付でも販売しております(※現在は終了)、関ジャニ∞の安田章大さんの写真を撮りました写真集『LIFE IS』(マガジンハウス/2020年)ですね。こういった形で“青い色”っていうものが非常に強調された作品・写真が、多くのページで展開しております。
岡田 そうですね。この写真集は、全編がほぼ青いイメージだというぐらい青い写真が続いています。この色も撮る前から決めていました。彼が「命のことを表現したい」と言っていたので、それを写真でどう表現しようか撮影前に考えていたのですが、それはアイドルらしい温かな命ということではないと、彼との会話の中で感じました。
どことなく冷たい世界、この世の果てを漂っているかのような姿を撮ろうと思ったときに、深い青、ユルリ島の写真よりもより深い青にしようと思いました。ですから同じ青ではありますが、僕の中では違う青で描いています。『LIFE IS』はドロドロしたというか、濃い油絵の具のような青を意識しています。『エピタフ』はもう少し薄いというか、水彩画のような青ですね。
福地 人間が関わってくると、そういうことで変わったりすることってありますか?
岡田 人間が画面に入ることの影響というよりも、どちらかというと、彼と一緒に一つの作品を作ってゆく過程で目指すものがもう少し生々しいものだった。その生々しさを表現するために色を考えてゆく、という感じですね。
福地 普通こういう有名な芸能人、タレント、アイドルさんの写真集の仕事っていいますと、結構事務所の言いなりとかプロデューサーさんの言いなりとか、そういうところがイメージしがちなんですけど、安田章大さんの仕事の場合、結構はっきり自分の意見・意識をお持ちだったんですね。
岡田 そうですね。明確な意思のある方ですね。
福地 岡田さんに撮ってほしかったって向こうからリクエストがあったんですよね。
岡田 もともとは僕の作品を昔から好きだったということで、ある雑誌で対談のお話をいただいて、それから二人で何度か会っているうちに写真集を作ろうという話になって、内容を一緒に考えて。普通に考えると、アイドルの写真集で“青”といったら、沖縄の海に行って撮るような観光的で爽やかな“青”なのですが、そうした“青”では表現できない内容だと思い、安田くんと何度も話をして、内容を見つめていったというか。北海道でのロケにマネージャーも出版社の方も来ないという、一般的にはあり得ない状況で作りました。
福地 普通珍しいですよね。
岡田 普通というか……。
福地 あり得ないですよね。
岡田 アイドルの写真集というのは軽く見られてしまう傾向があるのですが、やはり一緒に作るからには残るもの、売れるかどうかということよりも、芸術として残ってゆくかどうかということのほうが僕は大切だと思っているので。そういった意味では、普通ではない環境で作れたからこそ、これまでのアイドルが手掛けてこなかったような作品を残せたのかと思っています。
福地 彼のファンの人は3年前に出た写真集をすでに買っていると思うんですけれども、芸能人さんの写真集という目で見るにはちょっともったいない、それで片付けるにはもったいない要素がある。作品として扱って差し支えないものがあると思いますので、これから展覧会の会場に行く人はぜひちょっとお目通し、ご関心がありましたらご購入いただければと思っております。
福地 そうしたなかで、こういう方が関心を持ったのは、岡田さんが20代のときに当時の若者の姿、人々の姿を撮った写真です。その一部が展示されてますけど、30代を過ぎてから自然とか風景というものを意識されるようになった。40代が過ぎて、その先に目指しているものというものをお伺いしました上で、インタビューを締めたいと思います。
岡田 20代は人物を撮って、30代は自然を撮るということは写真を撮りはじめた頃から決めていました。それぞれの年齢のときにしか向き合えないもの、撮れないものが必ずあるので、それを踏まえた上で、40代でいま自分が向き合うべきもの、撮るべきものを考えています。おそらく20代で見てきた世界、30代で見てきた世界、その二つの世界の要素が合わさったものがこれから形として現れてくるのかな、という気がしています。
福地 いろいろとお話を伺わせていただきまして、ありがとうございました。
岡田 ありがとうございました。
福地 いろいろお伺いしたいことはまだあるんですが、時間が迫ってきましたので、いったんここでお客さま、皆さまの中で、せっかくの機会なので、岡田さん本人に尋ねてみたいというご質問のある方がいらっしゃったら、ご発言がありましたら、ご質問をお取り次ぎしたいと思います。
どなたか岡田敦さんにご質問されてみたいという方、いらっしゃいますでしょうか。
観客 よろしいですか? 興味深いお話をありがとうございました。先ほど、隣の美術館で展示を拝見してきたのですが、展示の構成がものすごく緻密だなというふうに拝見してきました。先ほど展示の構成について、時間をかけてやってこられたという話をされていたんですけれども、展示の構成の組み立てについてもう少し詳しく、こだわった部分ですとか、神田日勝の作品の中から展示作品を選ぶにあたって、何か気を付けたというか、こだわったところがあれば、教えていただけますでしょうか?
岡田 まず、僕の写真を展示している壁と、その隣にあたる日勝の絵画を展示している壁とが、互いに呼応するような形になることを最も意識しました。階段を背に会場の右側の壁のほうが、とくにそういった構成には気を使っていて、僕がその写真を撮ったときの年齢と、日勝がその絵を描いたときの年齢が近いものを右側の壁に集めていますね。
もう一つは、やはり日勝が遺した作品の意図を僕が読み間違えたりしてはいけないので、誤った解釈をすることが一番失礼なことだと思っていたので、「彼が何を描こうとしていたのか?」ということを考えることに最も時間をかけました。この1年間は日勝とずっと会話をしていて、もちろんそれは、それぞれの絵と僕が向き合っているだけで、実際には彼の絵と会話をしていたのですが、やはり彼が遺した作品をずっと見ていると、絵の中にはたくさんのことが描かれていました。それは像として描かれている“馬の姿”というような意味では決してなく、“その姿を借りて日勝が描こうとしていたもの”が描かれていたという意味です。彼が描こうとしていたものを僕が探しにいく、そんな感覚で日勝の絵と向き合っていたので、そうしたことが展示の構成にも反映されているかと思います。
観客 ありがとうございます。もう1点いいですか? ユルリ島の作品は今後はどのように展開されていくのか、それとも、どういうふうに完結に向かっていくのかを教えていただけますか。
岡田 この作品の“終わり方”というのは非常に難しいなと感じています。ここ数年の島の現状を考えると、それが一つの課題ではありますね。
ただ、ユルリ島の馬の血脈を受け継ぐものは残り2頭しかいませんし、いずれこの島から馬がいなくなることも以前から変わってないので、「今どういう形でこの作品を終えるのか」ということよりも、「終わったことが、50年後にどのような見え方をするのか」ということのほうが重要だと感じています。歴史に長く残る形、そうした終わり方をすることが、馬たちに僕がしてあげられることで、それが人の記憶の中にこの島を留めておく唯一の方法だと思っています。そんなことが、どうしたらできるのかということを考えています。
だから、「こんな写真を撮ったら終わり」ということではなく、「どんな形で作品を残すのか」ということが重要であって、それは写真集ということだけではなく、今回の展覧会もそうですが、人の記憶の中にこの島を留めるために僕がしていること、その全てがこの作品における僕の創作活動であり、“誰かの記憶の中に生まれたイメージ”こそが作品だと思っています。つまり、単に写真を撮ることが作品を作ることではなく、人の記憶の中に残るものを作ることが創作活動であって、見てくれた方の心の中に「幻の馬」を描くこと、それができたときに、この作品は完結するのかな。僕の仕事が終わるのは、そのときだと思っています。
観客 ありがとうございます。引き続き楽しみにしています。
岡田 ありがとうございます。
福地 お時間が迫ってますが、あと1人もしご希望がありましたら、質問がございましたら、受け付けたいと思います。
観客 貴重なお話をありがとうございました。『エピタフ』の内容についてお伺いしたいことがあるのですが、写真集としてユルリ島の馬の写真を発表することができたなかで、今回の本は、島に関係のある方や馬を知る方に岡田さんがお会いしてお話を伺ったインタビューの書き起こしが収録されていたり、記録的な資料もあります。岡田さん自身がリサーチされたときの話が、文字で物語のようになっているところがすごく印象的だなと思っていて、それがより写真を引き立てているといいますか、バランスがいい本だなと感じています。本全体でユルリ島の物語を写真とテキストで描くという難しいことをやられていると思うのですが、それはいつも写真で自分のやりたいことを表現していくことと違うというか、難しかったというか、写真を文書で補うという感覚なのか、それともどういう感覚で今回の本を作られたのかということをお伺いしたいです。
岡田 難しかったですね。ただ、僕の本来の仕事は、やはり写真を撮ることで、この島の馬の命と向き合うことでした。今回の展覧会で展示している作品が、まさにそういった作品で、僕がやるべきことは基本的にそちらですね。ただその一方で、静かに消えてゆく馬を見ながら、最後にこの馬たちに何らかの役割を与えたいという思いが湧いてきました。
僕がユルリ島の写真を撮りはじめた頃は、本当に価値のない島だと思われていて、その価値のない島の歴史をいくらすごいすごいと語ったところで、誰も興味を持たない。価値のないものに興味を持ってもらうためには、芸術として僕が人の心に残る作品を作ることが大前提でした。それができれば、この島の馬はユルリ島だけではなく、北海道における人と馬との営みの歴史をも伝える存在になり得るかもしれない……そう思い、関係者にインタビューを始めたり、国後島まで行ったりしました。
島の馬に最後に役割を与えたいと思い、作った本が『エピタフ』です。“写真集”という意識で作ったというよりは、歴史を刻んだ“ひとつの作品”としてこの本を遺したかった。そういった意味では、構成で携わってくれた星野智之さんや、デザイナーの泉美菜子さんの助力も得て、単なる記録集ではないものに仕上がったのかなと思っています。感覚としては、目的から逆算して作り上げてゆくというか、写真だけで表現するときとは違いました。
福地 続いて、後ろのほうの列で手を挙げていた方がいらっしゃったかと思うんですが。
観客 本日はありがとうございました。先日、岡田敦さんの写真をいろいろ拝見させていただいたのですが、北海道や日本に限らず、ユルリ島以外でもっと存在を知ってもらいたいといった場所だったり、現在、取り組んでいるような活動は、ユルリ島以外にもあったりするんでしょうか?
岡田 知ってほしい場所というのは、今のところまだ出会っていないですね。向き合いたいと思うものは、徐々に見えてきているのですが、ここで話せるものは……。
一同 (笑う)
観客 それはいずれ何かしらの形で発表していくのでしょうか?
岡田 そうですね。まだどう向き合うのか、どういう形で表現するのがよいのか、そうしたことが見えていない状態なので、わからないことが多いのですが、目的というか、描くものが明確になったときに、そこに向かって進んでゆくような気がしています。
観客 楽しみに待っています。よろしくお願いします。ありがとうございました。
福地 ということで、楽しみにしていてください。私も待っています。
お時間過ぎましたので、名残惜しくございますが、いったん締めさせていただきたいと思います。貴重なお話、大変ありがとうございました。
岡田 ありがとうございました。
<対談に登場した作品 ※No.は出品番号(展覧会図録による)>
【神田日勝】
*《痩馬》(1956年/19歳/未出展)
*《馬》(1957年/20歳/No.2)
*《牛》(1964年/27歳/No.6)
*《死馬》(1965年/28歳/No.13)
*《馬》(1965年/28歳/No.15)
*《開拓の馬》(1966年/29歳/No.19)
*《晴れた日の風景》(1968年/31歳/未出展)
*《室内風景》(1970年/32歳/未出展)
*《馬(絶筆・未完)》(1970年/32歳/No.11)
【岡田敦】
*《THE WORLD 2007》(2007年/28歳/作品No.8~10)
*《THE WORLD 2008》(2008年/29歳/作品No.3)