終了

第28回蕪墾祭講演会録

日時

2022年6月18日

会場

鹿追町民ホール・ミーティング室

本イベントについて

演題「戦後美術と神田兄弟」 講師:藤村克裕氏(美術家)

今回講演の機会をいただきまして、心から御礼申し上げます。神田一明さんと神田日勝さんのお二人の作品が同一会場に並ぶということは、画期的なことだと思います。去年の暮れに旭川の道立美術館で展覧会(神田一明、日勝展)がありましたが、その出品作品の中から抜粋して鹿追に巡回していると伺っております。旭川でもこうやってお話をさせていただく機会があったのですが、時間が足りず上手くいきませんで、今回もそうなりそうなのですが、勘弁していただきたいと思います。時間になりましたらぴったりと終わりたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

いまスクリーンに写っている写真は、日勝さんと一明さんが畑を耕している写真です。日勝さんは中学校を出て数年でしょうか。一明さんの方は浪人をしているとき、芸大に入る前くらいでしょうか。


画像:プラウで畑おこしをする神田兄弟

昨年、旭川での展覧会に際して、神田一明さんに初めてお会いしてお話を伺ったんですが、一明さんは東京藝大に入るために3年間浪人したのですが、その浪人生活はほぼ鹿追でやっていたとおっしゃっていました。それは信じがたいことで、私の場合は東京で3年間浪人してやっと藝大に入ったような次第で。もちろん鹿追にいても時々能勢先生にはみてもらう機会はあったでしょうけれども、基本的にひとりきりで勉強をしていたようです。直前はお姉さんが埼玉県に住んでいたので、そこに住み込みながら、蕨という町の蕨画塾という当時結構名の知れた画塾があって、そこに一ヶ月通っただけだったといいます。

蕨画塾で勉強している時に、寺内万次郎という、当時既に芸術院会員だった偉い絵描きがやって来て、(藝大の)試験(科目)にあった自画像とデッサンを見てもらったそうです。そのときに寺内がじっと見てくれて「君はひょっとしたら将来いい仕事をする人になるかもしれないなあ」と言ったそうです。一明さんは、「すごく嬉しかった」と仰ってました。要するに、寺内万次郎から「お墨付き」をもらうということは、将来を保証されたようなものですから、藝大に入るよりも嬉しかったのではないでしょうか。

東京藝大に合格したときは、自分でも入るのが当然だと思っていたそうです。なぜかというと、「周囲を見ればそれは分かるでしょう」と言ってました。周囲が自分より全然力が足りないことが一目瞭然だったということですね。鹿追でひとりで勉強していた、勉強と言っても農作業をしながらですから、一明さんは大変な力量の持ち主だと思います。

この絵(神田日勝《風景》1952年頃)は日勝さんが小学校高学年か中学生の時のもので、近所の人(大槻さん)にちょっと絵を描いてみてくれと言われて描いたものです。この絵を観ますと、小学生にしてはとても大人びていると言うか、すごく上手い。ありえないぐらい上手い。中学生が描いたにしても、凄いバランス感覚です。日勝さんの力量も驚異的だと思います。今回、私は小林館長に笹川に連れていっていただいたんですけれど、そこで脇坂さんという、笹川小学校で日勝さんより一学年上の方にお会いしました。当時は複式学級ですから、(二人は)同じ教室にいて、日勝さんが転校してきたときの様子もよく覚えておられました。

その頃、日勝さんが休み時間に描いたノートの絵を見て、びっくり仰天して、周りも仰天して「これ描いてあれ描いて」と止まらなくなった、という話を聞きました。彼は小学校3年生の時に東京から鹿追に来ているんですよね。その頃には「塗り絵」のもとになるような絵、それよりもっといきいきした絵をサラサラと描いたといいます。一明さんの昔の絵は本や雑誌などを探しても出てこないのですが、この二人の兄弟がどのくらい非凡であったかが、日勝さんのこの絵一枚を見てもわかります。特別な才能の持ち主だと思います。

神田家の近所には小林守材という画家が住んでいました。この絵(小林守材《清水谷展望》第13回二科展出品作)は戦前の二科会という大きな団体展に出品された絵です。小林守材さんは二科会の会員でした。この絵からはセザンヌの影響を認められますが、きっちりとした力のある絵です。この方(小林守材)が、神田家が入植した場所の近くにおられて、日勝さんの小さい頃の絵を観て「上手すぎる」と呟かれたという逸話が残っています。小林守材さんはやがて請われて帯広柏葉高校の美術の先生になって、進学してきた一明さんを教えることになります。一明さんは今でも小林守材さんのことを「ショパン」というあだ名で呼んで、いろいろな思い出を大切にしています。

一明さんは東京の記憶を鮮明にお持ちなんですね。 一明さんは11歳の時に東京から入植なさっていますから。この写真は昭和33年、戦争が終わって十数年経った頃の、彼がよく遊んだ石神井川(しゃくじいがわ)の写真です。 これは昭和42年、1967年の同じ川の写真ですが、子供が遊んだりする場所ではなくなってしまいました。現在は川の周りに家がびっしりと並んでいて、人が川に入っていけるような場所はどこにもないし、「そこで遊ぼう」という気持ちには到底なれないような川になっています。昔はこの写真のような、のどかな感じ。これも戦後の写真なので、戦争前はどうであったかわかりません。練馬も結構な空襲の被害を受けたようです。詳しくは調べが及んでいませんが、近所の軍需工場を狙った空襲で被害も随分出ていたようで、神田家はそういうものを避けて、北海道にご一家でいらっしゃったのでしょうね。

当時、一明さんがこの川で遊んだ友達が、岡本鉄二という同級生。岡本鉄二は、岡本唐貴(とうき)という戦前の新興美術運動やプロレタリア美術のリーダーだった人がいるのですが、その次男です。岡本唐貴の長男は、のちに漫画家になり、「白土三平」を名乗ります。岡本鉄二はそのお兄さんの「赤目プロ」の仕事をしながら、白土三平が亡くなった後はその著作権管理などをして、去年亡くなっています。岡本鉄二さんの写真を私は持っていたのですが、ちょっと見つかりませんで、ご覧いただけないのですけれども…。ご興味がある方は『アックス』という漫画雑誌の今年(2022年)の春の号で、白土三平と岡本鉄二の特集が組まれていますので、そこで鉄二さんのお顔をご覧になれます。私もその特集が良いものだったら一明さんにも送って差し上げようかと思っていたのですが、鉄二さんの情報はほとんどありませんでした。鉄二さんが「死んでしまった」と一明さんに知らせるのにためらいを覚えて、お送りしませんでした。

つまり、練馬時代には近所にプロレタリア美術運動を指導するような人がいて、その息子達と仲良く過ごしていた。そういう思い出を持って、一明さんは鹿追に来ている。こういう言い方は極端かもしれないけれど、一明さんは「東京の人」なんでしょう。他方、日勝さんは入植時に7、8歳だったから、確かに東京の記憶もあるだろうけれども、そこまで捨て去りがたいような思い出ではなく、それよりも目の前にある現実に反応するような年齢で鹿追に来ているんじゃないかと思います。これは結構大事かな、と思います。

元々は練馬で仕事をしていたご両親ですから、長男が上京して藝大に行くなんてことも、受け入れやすかったんだと思います。これが純粋な農家であれば、長男が東京に行ってしまうなんて大変なことです。実は私の実家もお百姓だったんです。私は長男だったのですごく反対されたのですが、しかし仕送りはちゃっかりと貰って三年浪人して藝大大学院まで行ったんですけれども。私は帯広の西のはずれだったんですけれど、一明さんの場合は、鹿追の笹川から帯広柏葉高校、当時は寮生活だったのでしょうけれど、そこ(高校進学)もご両親には大きな決断だったでしょうし、さらに柏葉高校から東京に行かせるというのは、大変な決断だっただろうと思います。ですので、こうした奇跡がいくつも積み重なって、一明さんは東京に行き、日勝さんは北海道に残った。

一明さんは、藝大で奥さんの神田比呂子さんに出会いました。当時は岡野比呂子さんと言って、彼女も釧路出身で、自分が好きな絵を給料を貰いながら続けるには、藝大に行って教職に就けばいい、と東京藝大に行くことを決めたらしいです。東京で一年間浪人して「どうも油画科は厳しい」と思って彫刻科を受けたら、一番で入ったそうです。やがて彫刻科を卒業した後に、やっぱり油画科を受けてみたいと思って受験したら、受かってしまったと。それで一明さんと出会ったそうです。比呂子さんは背も高くて身体付きもしっかりとしていて、眼光も鋭くて、男性が近寄りがたいような様子。でも、一明さんは女きょうだいに囲まれて育っているから、なんの抵抗もなく「やあ」だなんて比呂子さんに声をかけて、映画の話で話が合ったりして、「結婚しましょうか」と学生結婚をされたと。

それから学校の近所に住んで一明さんが大学院、当時は「専攻科」と言いましたけれども、現在の大学院の修士課程にあたる専攻科に進んだ時に「やっぱり食べられない」ということで、比呂子さんは本格的に教員の仕事を探し始めました。埼玉県、東京、神奈川県、一生懸命関東圏を探したけれども教員の仕事はない。念のため北海道の教育委員会に電話をしてみると「あるよ」と。でも「2週間以内に来い」と言われたそうです。それは留萌線の小平(おびら)というところの寧楽(ねいらく)という地域だったそうです。当時は炭鉱町で、川も真っ黒で見たことのない景色でびっくりしたけれど、そこで稼がないと生活が立ち行かないので、比呂子さんは一明さんより一足先に寧楽に赴任し、油画科は中退した。彫刻科は卒業していたわけです。一明さんは専攻科で勉強していたけれども「やっぱり食べるのが大変だ」ということで、「合流しようか」と北海道に行ったけれども、田舎町に行ったって急には仕事が無いじゃないですか。毎日釣りをしてたんですって。それがまた目立つらしいんですよ。「あの男は一体何をしているんだ」と周りから見られたところから始まって、半年後に士別町の中学校の教職を得て、そのしばらく後、ご長女が生まれた頃でしょうか、比呂子さんと合流して、その後、北見柏陽高校の美術の先生になり、しばらく北見で過ごしているうちに「旭川教育大で募集があるから」と言うので応募して採用されたと。それから一明さんたちはずっと旭川ですね。

その間、日勝さんは畑を耕し、抜根をし、野幌の通信教育で高等教育を受けて「これからは酪農も考えないとこのままじゃ立ち行かないかな」という判断で乳牛を導入したり、ミサ子さんと出会って結婚をしたりと、そういうふうに過ごしていました。

日勝さんは中学生のときに一明さんから油絵の具の使い方を教わって、自分でも油絵を描くようになりました。《馬》(1957年)は独身の頃に平原社という帯広の公募展に2回目に出品した作品です。この絵で賞を貰って、ある程度の自信を得たのではないでしょうか。この絵は、日頃触れあっている馬を描いていますけれども、実際に馬を目の前にしてスケッチをして描いたわけではなく、おそらく日々一緒に暮らして、毎日触って分かっている馬の様子を思い出しながら、農作業の後に描いているのではないかと思います。だいたい描くのは夜でしょうか。

この絵《馬》では、日勝さんの絵には珍しく光の方向が分かるように描いてあります。日勝さんの絵には一貫して陰影の表現、つまり光の方向の表現がありませんが、この絵では陰影を手がかりにしてガッチリとした馬の身体を画面の中につくり出そうとしています。既にこの絵には、日勝さんが生涯持ち続けている特質…壁の木の感じとか、飼い葉桶のがっちりした形とか、そこに首を突っ込んでいる馬の身体の、本当に触ったら「ここは固くてこっちは柔らかいな」という感じが分かりそうな、下の顎やあばら骨、そして肩の骨など、本当に触ったように、触覚を大事にして表現している。外からの光を受けてぼんやりと見えているのか、とにかく馬はあまりはっきり見えない。馬房はだいたい暗くて、馬のために電球や蛍光灯を点けたりはしないですから、暗い中に佇んで飼い葉の入っている箱からご飯を食べている馬を描いている。

この絵は現在、会場に展示しているので、お帰り前にもう一度ご覧になるのが良いと思いますが、このときから「日勝さんの全てがここにある」というか、非常に優れた能力を持っていたことがわかると思います。

こちらは日勝さんが残したアルバムです。いろんな絵(作品図版)が切り抜かれていて、いろんな写真が貼ってあって、とても大事にしていたようです。このあいだ(2020年)の東京での「神田日勝 大地への筆触」展のときに初めて公開されて、こうやってページごとに図録に収録された。これを見ると、日勝さんは日頃から飢えるようにして、絵の情報を熱心に吸収していたことがよくわかります。日勝さんは日頃から一明さんから(絵に関する)いろんなことを聞いていて、ただの田舎のお百姓の絵が好きな人ではなかったのです。最初から本格的な情報を手に入れていて、時代の状況と切り結ぶような人だったんですね。そのことがよくわかるアルバムです。

話は一明さんに戻りますが、この絵《裸婦》(1959年)は一明さんが専攻科のときに描いた絵です。今回の鹿追展には出ていないのですが、一明さんの絵の中では最初期の作品として残っています。裸の女性が横たわり、両腕は頭の後ろに置いて、腰をややこちらに向けています。この絵からわかることは、日勝さんと似た感じがあるんですね。「ペインティング・ナイフ」というコテより小さな道具を使って描いているのですが、日勝さんに比べると、タッチがちょっと大きいです。タッチというのは、ペインティング・ナイフを動かす度合いのようなもので、上から下へ、右から左へ動かす1回ごとの痕跡がタッチですけれども、一明さんはそれが日勝さんよりちょっと大きいのです。

《裸婦》は画面の作り方が巧みで、この地平線に最初にパッと鑑賞者の目が行くんですね。それから人体が見えてくる。その間はごくわずかで、一秒間の何分の一かの時間ですけれども、最初に地平線、台と壁との境目かもしれませんが、この明るいところに目が行ってから、その次に手前に何かあるのに気づく。それから、おっぱいの形とか、腰の形とか、顔つきを少しずつ探索していくのです。この絵の特徴は、顔がよくわからないことです。特に目がどこを向いているのかわからない。目が開いているのか閉じているのかわからないでしょう。実は目は開いています。下瞼は白でトントントンと描いていて、上の瞼には点を打って描いている。よく見ると黒目と白目もあるのですが、鑑賞者の視線がまず顔に向かないようになっている。ぱっと見はこちらを見ているかどうかわからないのに、やはりモデルは鑑賞者を見ている(鑑賞者はモデルから見られている)と気が付いたときのほうが、訴えるものが強いでしょう。おそらくそういう意図で、こういう表現をやっているんだと思うんです。人体というより「地形」を描いているようなところがあるかもしれません。身体全体が茶色いから、ということもありますが…。この《裸婦》は今回は出品されていませんが、何かの機会があればぜひご覧いただければと思います。

この頃、一明さんと日勝さんがよく話題に出しながら傾倒していた作家が田中阿喜良です。田中阿喜良《コムポジションB》(1954年)は、一明さんがまだ鹿追にいる頃の絵です。棺の中に亡くなった人がいてその周りに悲しんでいる人がいます。生死の問題、「悲しい」とか「つらい」とか、田中はそういうテーマを一貫して展開する人です。

この《棺》(1955年)という絵は、田中が世の中から注目を集めた絵です。日勝さんのスケッチブックをしっかり見ていくと、片膝で頬に左手を添えているこの人物が出てきます。ほぼこの絵から写し取っていると言うか、馬が死んでいるところを2人、あるいは5人ぐらいが周りで見て嘆き悲しんでいる絵を描こうとしたエスキース、デッサンがたくさん残っています。その1枚にこの人物が描かれている。それくらい田中阿喜良に惹かれていたのですね。

他の絵も見てみましょう。《母と子》(1955年)では、母親が子どもを抱いている。腕は太くて、子どもはなぜか黒くなっていて「いったいどういう状況か」と思ってしまう。母親が本当に子どもを大切にしているというか、何かから子どもを守ろうとしているのがよく伝わってきます。注目して欲しいのは、顔の左側が暗くなっていますよね。墨を塗っているわけではなく、陰が描いてあるのです。ところが腕や手を見ると明るさと陰影の関係が逆になっています。つまり、光をもとにした陰影を描いているのではなくて、物の実在感と言うのか、「ここに母親と子どもがいる」ということを描こうとしているのがわかると思います。立体感を描きあらわすときに際(きわ)、輪郭に向かって段々と暗くするのは、とても原初的な立体感の表出の仕方ですけれども、光の当たる向きを利用して陰影を描くことを考え始めたのは歴史的に見れば最近のことで、15世紀、16世紀でやっと始まります。それ以前のヨーロッパや中国の絵を見ても陰影はありません。光によって統一された場が作られる表現になるのは、さらに後の時代になります。

駆け足で田中の絵を見ていきます。《杭》(1956年)では、真ん中に鉄条網、左側には墓標のようなものがあり、頭だけになった人間がじっとそれを見ている、という絵です。人間の身体はなくても一人一人の感情がここに込められていて…墓標のところまで行って弔ってあげたいという気持ちがあっても現実化できないような状況を描いているんだと思います。1957年の絵ですから、やはり安保闘争の直前で、朝鮮戦争以降の厄介な状況、1945年にやっと戦争が終わってこれから民主主義の世の中が始まるのだと思っていたのが、どんどん裏切られていくという状況下での田中阿喜良のひとつの感じ方、それを絵の中で言っているように見えます。

《父子》(1957年)では、子どもが父親に肩車されているのですが、がっしりとしがみついている。目の前の状況を許さない、という意思が伝わってくると思います。この人もペインティング・ナイフでぐいぐい描いていきます。この絵にも統一された陰影はありませんよね。無いと言っては嘘になりますが、あまり感じません。

田中も実存主義の人…ほら、戦後は実存主義が大流行したじゃないですか。インテリはみんな実存主義か、マルキシズムか、あるいはシュルレアリスムかダダイズムか…後はアブストラクトとかアヴァンギャルドとか。人間の在り方みたいなものを問題にしているように思います。《枷》(1958年)という絵は、首も手も意思も自由にならない、ということでしょうか。こういう作品を描く田中阿喜良はとても人気がありました。

もうひとり挙げます。この《密閉せる倉庫》を描いた曺良奎は、朝鮮から来た人です(画像:《密閉せる倉庫》1957年 東京国立近代美術館蔵)。田中阿喜良と似た、ガツっとした人物表現があるでしょう。決してこの画中の人物はブルジョワジーではないですよね。貴族でもない。労働に勤しむ人です。丸首の白いシャツや、頭が坊主であるとか、顔をはっきり描かないことから、象徴的な人物像として扱っているところに注意しておいてください。

曺良奎さんは1960年頃に北朝鮮の帰還運動で朝鮮に戻って、日本ではかなり華々しい活躍をしたのですが、帰国以降は消えてしまったんですね。粛清されてしまったのかわからないですけど、もったいないことだと思います。

先ほど見た一明さんの《裸婦》は学生時代に描いたものです。彼の同級生をひとり紹介します。最近はこういう絵を描いていますが、おわかりになりますか。独立美術協会の幹部の奥谷博という方です。つい最近も神奈川県立美術館の葉山館で大個展をおこないました。既に日本芸術院の会員です。細かなところまで詳しく描く人で、この《足摺遠雷》(1981年)という絵は故郷の土佐の海を描いているのですが、海の表現なんかをご覧ください。呆れるくらいです。葉っぱ一枚一枚も丁寧です。そういえば今年(2022年)4月から始まった朝ドラ『ちむどんどん』のタイトルバックは凄いですね。木々やさとうきびの葉っぱが一枚一枚揺れていて、あれを見たときは「負けている」と思いました。アニメーターがああいうことをやろうとするのは、画家がこういう細密な描写をやるけど「動くともっと凄いぜ」ということですよね。そのうち3Dになるともっと凄いですよ、きっと。

奥谷さんが学生時代に描いていた《横たわる裸婦》(1961年)、《おじいさん》(1962年)です。奥谷さんは藝大で林武教室で、林の弟子だったのです。他方、一明さんは小磯良平教室でした。奥谷さんは林武の様式を本当によく勉強したんですね。大学院の二年間では足りなくて、もう一回やったんですよ、修士課程を二年間。学生時代から何をきっかけに今の表現になったのか…それをやっていると奥谷博さんの話になってしまうのでやめますが。

今回の鹿追での展覧会には出ていませんが、一明さんの《赤い室内》(1961年)を日勝さんの絵の感じと比べると、結構よく似た感じがあるのがよくわかると思います。《ゴミ箱》とか、その前年の《家》と。日勝さんはお兄さんの絵を本当によく見て、そこから学び取ろうとしていたことが見受けられます。初めてこの作品図版を観たときにそう思いました。

《廃品風景》(1961年)の空き缶なんかが並んでいる様子は、日勝さんの《ゴミ箱》に近い様子がありますね。日勝さんと一明さんの違いがどこにあるかと言うと、日勝さんはみっちり隅々まで同じ力加減で埋めるんですよ。しかもタッチは細かい。本当に細かくきちっと埋めていく。描いているひとつひとつのものや隙間に質感と言うか、マチエールと言うか、材質感と言うか、そういうものが確立されるまでやっている。それに比べると一明さんは造形的な配慮をしないと気が済まない。(《赤い室内》ストーブの配管の付近を指して)こことか、隙間のところがポンと向こう側に行っているでしょう。


神田日勝《ゴミ箱》1961年 神田日勝記念美術館蔵

日勝さんもそういうこと(隙間から奥に抜ける表現)をやろうとはしているんですよ。例えばここ(ドラム缶の右隣)にあえて茶色い色を置いているでしょう。ところが、一番肝心な、向こう側にポンと抜けて欲しいところは気弱なのですね。気弱というか、あまりここに手を入れる必要を感じていないのかな。そういうところがまず一明さんとは違うんです。日勝さんの絵は一貫して隙間が向こう側に抜けるような要素を作り出すことにあまり関心がないというか、それが独自なのか…やはり関心が無かったのだと思うのです。他方、一明さんはそれをやらないと気が済まないので、日勝さんに「絵の全体のことをよく考えなくては駄目だ」と言うのです。その一明さんに対して「それをやろうとすると描けなくなってしまう」と日勝さんが言っていたのは、このあたりのことだと思うのです。

もう一つ付け加えると、ドラム缶の上のところは丸く描いているでしょう。でも底は平らに描いていますね。現実にはこんなことはあり得ないじゃないですか。それから「ゴミ箱」も、「これはいびつに作ったゴミ箱だ」と言われればそうかもしれないけれども、手前より奥が広がっているでしょう。これは下手だからやっているのではなく、わざとやっているのです。お手本は、ポール・セザンヌという「近代絵画の父」と言われる人です。絵を描く人は誰もがセザンヌとぶつかり合って「この人はすごいな」となるのです。どんな人も、絵を描くと。日勝さんは、そのセザンヌの様式をある程度学びとって自分の表現に結びつけていこうとしている。日勝さんは最初からただものではないわけです。この表現を鹿追の町の中で、畑の広い中で、特に日勝さんの家は西に向かってなだらかな斜面になっていますから少し閉ざされた感じもあるのですけれど、そういう場所でこれをいきなり習得するということではなくて、やはりお兄さんや、本や、後は先ほどの小林守材さんや、当時近所の中学校の先生だった山本時市さんとか、そういう人達に色々教わっている可能性が高いですね。こうした表現は急に出来ることではありません。

この《ゴミ箱》を描いたときに日勝さんは全道展で知事賞を貰っていますけれども、その時に協会賞という全道展の最高賞を貰った伏木田光夫さんと一緒に、日勝さんは全道展会場の丸井今井というテレビ塔の近所にある百貨店のトイレに行ったらしいんですよ。そのときに伏木田さんと日勝さんが「賞を貰ったけれどもこれからゆるくないぞ」と、「頑張ろうな」と。そして「純粋抽象なんてクソくらえだ」ということを言い合ったらしいんですね。

その伏木田さんの作品《北方の人》(1963年)では、画面の中に人体がたくさんあって。協会賞受賞作は探し出せなかったのですが、このような絵だったのではないかと思います。ちょっと時代が下るとこんな感じ。結構鋭くて怖い感じの絵を描く人ですね。伏木田さんは以前この神田日勝記念美術館の催しで、馬の話を手がかりに日勝さんのことをお話しになったようで、「日勝さんは『ある』ということを描いているのではない。『いる』ということを描いている。『私はここにいる』ということを描いている」と。とても巧みな言い方だと思いますけれども、そう仰っていたのをなにかで読んだ記憶があります。

続いて、伏木田さんの《受胎告知》(1964年)という絵を紹介しておきましょう。日勝さんは全道展でこういう良いお友達と知り合っているのですね。切磋琢磨できるというか。日勝さんとは全くタイプが違うのですが。この《人形のある静物》(1963年)だって、上に歯が剝きだされたような妙な動物がいるみたいじゃないですか。よく見ていくと、そうではないですね。人形が逆さまになって置かれていて、歯や牙のように見えるのは髪の毛なのです。このような人間の感覚を揺さぶるような仕かけをしている、大人の絵ですよね。ただ情熱に任せてベタベタ塗っている人ではない。日勝さんは彼とは、かなり親しくできたのではないでしょうか。手紙もかなり残っているようですし、展覧会があれば案内状をやり取りしています。

日勝さんは、平原社展で帯広の人達と知り合い、全道展で東京や札幌の人たちと知り合って、独立美術協会(独立展)で少しずつ全国的にいろんな作家たちと知り合っている。要するに自分が知り合う範囲、活動の場が少しずつ広がっていくにしたがって、少しずつ迷いも生じていく。ちょっとずつ欲みたいなものも出てきている。例えば、独立展で賞が欲しいとか、会員になりたい、とか、そういうことを感じます。

この画像(神田一明《灰色の家(廃屋)》1963年)は、北見に移ってからの一明さんの絵です。この絵を神田日勝記念美術館の方では今回の展示のために鹿追に持って来たかったみたいですけれど、会場にはありません。すごく綺麗な絵です。一明さんもやはり、日勝さんの《家》から影響を受けているのでしょうか、逆にね。制作時期はこちらのほうが随分遅いです。これも評判をとった絵ですね。

こちらは会場に並んでいる絵です。《飯場の風景》(1963年)。これも面白い絵でね、びっちり隅から隅まで力がこもっています。こんなことはなかなかできません。だいたい背景は手を抜くとかね、やってしまいそうですけど、本当にびっしり画面が埋まっています。ここで注目していただきたいことがひとつあります。後で現物を見ていただければ、私の言いたいことは分かっていただけると思うのですが、ここ(画面左隅)に板と板の間に隙間があるでしょう。ここに黒でピッと絵具が塗ってあります、細いけど。隙間の向こうまでどのぐらいの距離にあるのかわからない暗さ。こういうものが登場することに注目して欲しいのです。


神田日勝《飯場の風景》1963年 神田日勝記念美術館蔵

というのも、後で見ていきますが、日勝さんは1965年に死んだ馬を描くのですけれど、その絵にぽかんと空いた、黒い開口部が出てくるのです。この板と板の黒い隙間は、その黒い開口部の原型のように感じます。死んだ馬を描いたときには『太陽』という雑誌の写真を参考にしていたようで、その写真は古墳時代の装飾古墳の写真ですが、やはり開口部がぽかんと空いています。それを参考にしているにしても、この得体の知れない暗い闇のような、手が届くかどうかわからないようなものに着目して、絵にアクセントを与えている。やはりこれもただものではないと思うのです。

あと欲張れば、ここ(左側の人物の腕)が難しすぎる。この下の腕は誰もが描けないですよ、そんなに簡単には。上の腕は描けても、下の肘から手首までの見えてない部分が描けない。だから少し変な感じになっている。手や足が大きくなっているのは構わないのです。だって興味があるのですから。働いて節くれだらけの足とか手とか。だから大きくなって当然だと思います。「どこそこに住んでいる誰それさん」というのは分からないですが、働いて疲れて今ひと休みしているところだとよく伝わってきますよね。かえって「誰それさん」と描くよりは伝わるかもしれない。

ちょっと難しいこともやっているし、この後に繋がることもやっているし、また皆さんに見て欲しいのはここ(ストーブ)に丸い形がありますよね。二つの同心円、三つの同心円。それからここ(右下の空き缶)にも丸い形がありますよね。少し斜めになっている。よく見ていただければわかると思いますが、ここ(薪を入れる箱)も木目が同心円になっています。丸い形の反復、そういう「いたずら」もしている。だから凄く充実している作品ではないでしょうか。確か、結婚なさった後の作品ですから、やはりミサ子さんと結婚なさって「頑張るぞ」という感じがよく伝わってきます。

《板・足・頭》(1963年)という絵は今回出ていないですけれども、頭と足しかありません。板の塀で隠してありますから。逆に言えば板の塀を描けば身体を描く必要が無い、よく考えられた絵ですね。足の表現なんか、とてもいいと思います。バランスを考えるとおかしな感じがしますけれども、全然そんなことは構わなくていい。正面を向いた頭、横を向いて頭、後頭部をこちらに向けた頭、まるで人間の標本のようにして、冷徹に人間というものを見据えていこうという気持ちも伝わってくる。これも特定の個人を想起させるような表現ではありません。

《板・足・頭》は、寺島春雄の《柵と人》(1957年、北海道立帯広美術館蔵)を参考にしているのではないかと言われていますが、比較してみますと、日勝さんのほうが組み立てがシンプルですね。逆にシンプルだから強い。手前に一層あって向こうに人がいて、後ろは壁にバンと行きあたる。 寺島作品では、手前に柵があって、真ん中の人がいて、その奥にまた柵があって、さらにその奥に空間があるという絵だから、複雑ですけど、そのエッセンスを取り込んでいるのでしょうか。

この絵を描いた寺島春雄という画家は、釧路生まれで、帯広にずっとおられた方です。他の絵も見てみましょう。《柵と人》(1957年、帯広百年記念館蔵)。寺島さんは、中本達也とか、そういう人の絵を観ているような気配がありますね。自由美術家協会に中本達也という画家がいたのです。寺島さんはやがてアンフォルメルの影響を受けて、こんな作風(「原野シリーズ」)になっていきますけれども、十勝の美術にとってとても大事な人ではないでしょうか。もちろん日勝さんにも大事な人で、当時の十勝の若手たちに随分影響を与えました。

この後日勝さんの《一人》(1964年)という絵が登場しますが、この自画像とされている人物が一明さんによく似ていると思うのです。(神田一明の写真を写して)これは一明さんの写真で、全道展の刷り物から取ったのですが、似てませんか?一明さんがモデルになっているような気がするんですよ、私の勘ですが。

一明さんは当時《農夫》(1964年)という絵を描いています。手前に大きくひとり人を描いて、後ろに物がある。一明さんの空間は結構複雑です。

日勝さんが一明さんの絵を見ていたのかわかりませんが、ほら。有名な《一人》(1964年)という絵です。独立展に初入選した絵かな。さっきの一明さんの絵が元になっているかもしれない、と思っています。さきほど少しお話しした黒い開口部、向こうに抜けていくような暗がりのかたちが後ろにあるのが分かりますね。目地の描き方とかを見ると本当に上手です。顔はちょっと不気味な感じで、《自画像》(1964年頃)を元にしているような気もするし、 一明さんのような気もします。

なんと先ほどの《自画像》の裏には、別の絵(《集う(習作)》)が描いてあったのですね。これは東京での日勝展のときに初めて公開されて、裏表が見られるように展示されていました。この絵(習作)は《集う》の本画の元になる絵だと言われています。本画は行方不明になっています。ミサ子さんは「後でガリガリ削っていた」と仰っていましたけれども。やはり気に入らなかったのかな?だから捨ててしまったのか、消してしまったのか、わからないですが…。どこかで見かけたらぜひ私にもお知らせください。美術館にもお知らせください。見つかったらすぐに飛んで参ります。とても興味があるんです。他の絵に比べると、「誰それさん」と分かるような感じがするでしょう。人格というか、人相が特定できるというかね。それが嫌だったのかな。

このエスキース(習作)に似ている絵があります。田中忠雄という行動展の画家の、《カベナウムに説く》(1962年)。似ているでしょう、ナイフの使い方が。白いところ(人物の衣服)なんかを見るとわかると思うけれども、輪郭のところからペターっと塗っている。田中のほうが完成度は高いですが。田中忠雄は戦争中、札幌にいたのです。1948年まで札幌にいて、この《プラウのある農園》(1946年)のような絵を描いていた。彼が若い頃ですけれど。また、《兵隊にわたされるキリスト》(1955年)のような絵も描いている。朝鮮戦争の頃。彼はクリスチャンだったので、やはり戦争には反対だったのでしょうね。

日勝さんは、続いてこういう絵(《飯場の風景》1964年、北海道立近代美術館蔵)を描きます。僕はこの絵はとても凄みがあると思います。やはり、長男の哲哉さんとの「合作」だからですかね、迫力があるのは。何を言っているか分からないかもしれないので説明します。ミサ子さんの本を読むと、この絵を描いているときに長男の哲哉さんが「手伝った」っていうんですよ、魚の目のところを。それで、仕事から戻ってきて絵を見た日勝さんが、ミサ子さんは初めて聞いたらしいけれど、お母さんに怒鳴ったというんです。「どうして見ていてくれなかったのか」と。そしたらお母さんもすかさず「(絵を)裏返しておかない自分が悪いんでしょう」と言ったと。それで日勝さんが憮然とした様子でもう一度自分で魚の目を描いたというんです。魚の目だけではなくて、この絵には本当に気合いが入っていますよね。白いシャツの襟首の描写を見ると、写真の状態だとわかりませんけれども、本当にすごいなぁと思います。

行方が分からない絵は、もう一枚あります。《人B》。スケッチなんかは残っていますけど。もし見つけたらご連絡下さい。売ってくれとか、よこせとか、言いませんので。そのままでいいから観たいのです。この絵はプロレタリア美術の気配が濃厚、と言うか、社会主義美術レアリスムと言うとまたちょっと違うし…日勝さんはプロレタリア美術の系譜を感じさせるのが嫌だったのかな。

さあ、この後は「動物」に仕事が展開していきます。日勝さんの絵って、数年後には原色をいっぱい使って、何を描いているのか一見わからないような絵になるじゃないですか。よくご覧になるとわかりますが、《牛》(1964年)のここ(牛の脇腹付近)だけ見ると、何を描いているかわからないでしょう?私は日勝さんが本当に興味があったのは、こういうところだと思うのです。牛は「仮の姿」っていうか…。日勝さんの絵って、もともとアンフォルメルだったんじゃないか?私はそんな気がしてなりません。確かに道具立てがとてもショッキングですよね。お腹が割かれていたり、手足が鎖で縛られていたり。でも優しいところもあるんですよ。石として設定されている床に直接横たえるのではなくて、筵を敷いているところとかね。この《牛》を描いた後、大変有名な《死馬》(1965年、北海道立近代美術館蔵)を描いています。

死んだ馬の後ろ側にある開口部に注目してください。毛並みの表現は、リアルかというと、少し違うのですが…少し毛足が長すぎるけれど、やはり(日勝さんが)描きたかったのは、毛の流れとか、入り組んだ形とか、そういうところじゃないかと思います。

死んだ馬を描いた例(作例)を探しましたが、あまりありません。「大地への筆触」展図録には、海老原喜之助の死んだ馬を埋葬する絵(《友よさらば》)がありますが、あれはかなり抽象化されているというか、キュビスム的な処理がされていて、あまり生々しさがない。また、香月泰男が横たわり休んでいる軍馬を描いていますが、もうちょっと「モダン」な処理がされていて、こういう生々しさはない。日勝さんは「大向こう受け」を狙ってこうしているというより、もっと生々しい、日勝さんのリアルな生活感情のようなものがここに出ている気がするのです。

僕はこの絵を中学生くらいのときに観たのですが、「鹿追の馬房はすごいな、石でできているんだ」と思いました。でも、そんなわけないじゃないですか、馬の脚が傷んでしまいます。だからこれは、「絵の中で」描いたものですよね。専門的には「モンタージュ」と言います。ある効果を引き出すために、あるものとあるものを組み合わせることです。エイゼンシュテインという人の映画の用語です。異質なカットを普通のストーリーのカットの中に紛れ込ませて、特異な効果を導き出すのです。それと同様に、石でできた床、セメントが塗られた壁、その一部が剥げてレンガ造りの構造が見えていて、一部(レンガ)が外れていて、その向こう側に得体の知れない暗闇がある、というね。非常に良く構成されていると思います。

《牛》(1965年、北海道立近代美術館蔵)は、日勝さんの作品の中でも最高傑作だと僕は思います。牛が死んでいるところを描いている、と見れば、ちょっと生々しいけれど…牛が腹を裂かれているという。いや、腹は裂かれていないですよ、見えているのは表皮だけですから。腹が裂かれれば内臓が飛び出してきますからね。そういうことではなくて、色の効果として、こういうことをやっている。現実では「嘘」だけど、絵の中の「本当」を追求しているという意味では、色の対比とか、組み立ての巧みさ―背中やお尻が画面からはみ出していても、それが非常に効果的で牛の毛並みに目がパッと行く、自然に死んだ牛の姿が見えてくるという。本当は自然ではないのですけれどね。それから筵の目とかね。この作品は本当にすごいと思います。

《静物》(1966年)これは全道展の会員になったときの絵ですね。一明さんはこの絵が「大嫌い」だと言うのですが、僕はそうでもないな。1972年夏に鹿追で町民の皆さんが遺作展を最初にやられたじゃないですか、黄緑色の図録が発行されたとき。あのとき僕は三浪していてたまたま帯広に帰って来ていて、遺作展のことを知って、初めてこの絵を観まして、ちょっとギョッとしました。そのときのことをよく覚えています。筵が敷かれている場所(床)は、セメントがきっちり塗り固められたように描かれていますので、僕は「鹿追はすごいところだな」とこの絵を観たときにも思いました。「こんなにいっぱい食べ物があるんだ」とかね。(当時の)僕には、絵の中の「本当」がよくわかっていなかった。純粋な少年だったということですね(笑)


神田日勝《静物》1966年 神田日勝記念美術館蔵

続いて、一明さんの作品です。《ストーブのある室内》(1964年)は、制作年が1964年だから、まだ士別にいるか、北見柏陽高校に移っているか…。この絵は今回鹿追に来ていますので、ストーブの色を見てください。すごく丁寧に、いろんな色を使ってストーブのフォルムを追いかけています。青い色がポンと塗ってあるだけに見えるけれど、違いますよ。激しく色を使っているのと、ペインティング・ナイフの動き、ストロークがそれまでに比べて大きくなっていることに注目してください。

この《赤い室内B》(1964年)という絵も、よく考えて作られています。一明さんはこうやって室内を描くのですが、これらの一明さんの絵に対する日勝さんの応答が、この《画室A》(1966年)だと思います。

《画室A》は山口薫という画家のアトリエを撮った写真が発想の元だと言われています。この絵で注目して欲しいのは、ベニヤの色がそのまま活かされて使われている、ということです。壁の板が横に貼られていますが、その板と板の間の隙間は、色を塗っていません。それがあちこちにあります。ベニヤの色が「色」だと認識されていることがわかります。そういう発想が登場している絵ですね。

《画室C》(1967年)もご覧ください。青色の不思議な形の椅子の輪郭線が、ベニヤの色のままです。もちろん手前のあたりは絵具を塗っているところもありますが、すごく効果的に青とベニヤの色が響き合っていて、頭がくらくらするような色相対比になっています。この頃の絵は不思議ですよね。蛍光塗料を使っているような感じです。そんなことはないと思いますが。

《室内風景》(1968年、北海道立近代美術館蔵)は、これはペインティング・ナイフのテクニックの極地ですね。本当に凄くて、こんなことは僕には出来ない。全部ナイフで描いています。

日勝さんが「画室」シリーズを展開しているのと同じ頃に、一明さんはこういう絵(《赤い室内C》1966年)を描き始めます。絵具がぐにゃりと動き始めるのです。一明さんにとってはとても象徴的な絵だと思いますが、これも今回の鹿追展には出ていません。現物は傷んでいて、端がベニヤ板ごと取れてしまっていて…いろんな事情で来なかったのだと思います。旭川の展覧会にも出ていなかったから、残念だったけれど。皆さんに観ていただいたほうが良い絵だったと思うけれど…。今まできっちり描いてきた輪郭が崩れて、色が相互に侵入して、絵具がぐいっと動き出した瞬間の絵ですね。

1956年に「世界今日の美術展」という展覧会があって、アンフォルメル美術が紹介されました。それが一世風靡して、アンフォルメル旋風が吹き荒れたと言われています。一明さんの《赤い室内C》は、その潮流に対する最初の応答と言えます。1956年から10年経っていますけれども、つまり「納得がいくまではやらないぞ」という頑固なところが一明さんにはある。流行を追ったりしないというか、自分が納得できるところをやる。ただ、やはりアンフォルメルが気になっていたのだろうと私は思います。

《赤い室内C》は、確かにアンフォルメルの絵ではないですよ。一明さんは「僕、スーチンが好きだから」とおもしろいことも言うのです。スーチンというのは、ぐにゃぐにゃとした絵を描くエコール・ド・パリの画家です。このあたりのことは、今後しっかりと考えてみたいと思います。

《ストーブと机》(1966年)は《赤い室内》より後の絵ですが、「やっぱり形がしっかり無いとダメなんじゃないかな」と悩んでいるようですね。

ところがですよ。この絵を見てください。当時ハイラック・カラーという絵具が発売されて、その缶入りの柔らかい絵具を使って描いています。早く乾かすためにある樹脂を使っているのですが、それがあまり良くないようで、どうもヒビが入ってしまうようですね。日勝さんも同じハイラック・カラーを使っているけれど、今のところヒビは見えないけどね…。

《家族B》(1967年)は、一明さんのアンフォルメル風のシリーズの中で一番好きな絵です。家族を描いています。男の顔はわかりますよね。真ん中の赤ちゃんの顔もわかりますよね。左側にお母さんがいるのもわかりますよね。そこまではわかるけれど、その後目がさまよって、下に女の子が一人いるのがわかりますよね。この絵は、それまでの間の、目を運ばせる仕組みが非常に巧みなのです。前作の《家族C》も上手だけれども、パッパッとわかってしまうのですよね、「4人いるな」と。やはり観る人を宙づりにする時間が長いと、それだけ「これは何?」と関心が引き付けられる。「ああ、4人の家族を描いているんだ」と気づいた後も、しばらく「これは足だ」、「これは手だ」とまた探していけます。この形はこうだから柔らかそうな足だな、と感じ取れるし。私はとても好きな絵です。この後の一明さんの絵は、色が変わるんですね。それまでの赤や黄色から、青くなります。

《青い室内A》(1971年)は、さっきの赤い絵に似ているでしょう。絵具がぐいぐいと動いていて、どんどん即興的に描いていくというか…。この時代は、この絵みたいに「やはり輪郭線をちゃんとしないとダメなのではないか」という悩みのようなものが見えますね。色は結構激しく使っていますが、青や緑の系統に統一したいという気持ちが見て取れます。

《静物A》(1976年、北海道立旭川美術館所蔵)は一明さんの代表作ですね。なかなか良い絵だと思います。旭川美術館にあるのですが、結構評判を取った絵ですね。安井賞のベスト4までいったのかな。もう少しで安井賞だったのです。

続いて、福原記念美術館にある日勝さんの《魚(習作)》です。日勝さんは福原治平さんから頼まれてこの魚を描いたのですね。それでこの絵を福原さんのもとに持って行ったけれども、「気に入らないから梅原龍三郎の絵みたいに描いてくれないか」と言われて、《赤い魚》を描きました。福原記念美術館は、その後の作品(人と牛シリーズ)の最初のきっかけになったのではないか、と言うのだけれども、違うのではないかという気がします。僕はこの《晴れた日の風景》(1968年)が最初だと思います。


神田日勝《晴れた日の風景》1968年

形へのこだわりがまだ残っていて、輪郭線でくっきり区切って、色を置いて、固有色からは離れて描いている。思い切ったこととして、手の指が4本しかないとか、足がこんなふうに描かれているとか、子どものような「おひさまを描いちゃえ!」というところに流れてしまっていて、絵として観ると、おそらく日勝さんが描いたであろう近い位置から観ると結構な迫力ですけれども、離れて観ると、その輪郭線の形から見て「ちょっとな…」という気が私にはします。あえて遠慮なく言っております。

同じシリーズをだんだん重ねてやっていくと、さすがにきちんと、ある迫力に至ってきます。この《人と牛B》(1968年、帯広市教育委員会蔵)も太陽を描いていますけれども。手の指も5本ありますし…もう片方は4本ですが。なんで4本指なのかな。

この頃、日勝さんは、同時に《壁と人》(1968年)のような絵も描いているのですよ。これが不思議でたまらない。迷っているのかな。日勝さんは1968年春の独立選抜展に展示されたこの《壁と人》を観るために、生涯で唯一東京に行きますが、東京で何を考えたのか、私はそこに興味があって色々と調べたのです。これはそのときの独立選抜展のカタログですけれども、わざわざ出かけて行くわけだから、講評会に行っているはずです。いろんな先生がどんな意見を自分の絵に対して述べるのかと。かなり辛辣で厳しい会らしいですが、そのために会場(東京都美術館)に行って、同時に他の人の絵も観ますよね。その展覧会(独立選抜展)で賞を貰ったのは二人で、ひとりは馬越陽子さん。もうひとりは木村克朗さんでした。

馬越さんの受賞作の作品図版を見つけることができなかったので、同じ年に描かれた別の作品を写しています。《天上の歌》(1968年)は、形がほぼわからないでしょう。日勝さんが激しく色を使おうとした「人と牛」シリーズや「人間」シリーズに比較的近い。アンフォルメルの影響が馬越陽子流に展開したものだと思いますが、日勝さんは「こういうものが最高賞を貰うのであれば、俺が今やっていることでもいけるのではないか」ということで、翌年の独立展にこういう言ってみればアンフォルメルの系統の絵を出すのです。《人間B》という人と人が抱き合っている絵です。それまで選抜展はずっと選ばれてきて、新人として独立展の中で物凄く期待されていたのですけれど、ここで初めて選抜展から漏れるのです。おそらく日勝さんは相当がっかりしたと思うのですが、気を取りなおしながら次の展開を色々考えたと思います。

その独立選抜展の隣の会場で開かれていたのが、「現代日本美術展」という現代美術の展覧会です。これは同展のカタログに載っている、新聞紙を描いた絵(海老原暎《1969年3月30日》1969年)です。この作品は神田日勝記念美術館が収蔵したそうですから、またご覧になる機会もあると思います。

僕が思うに、日勝さんはこの海老原作品を会場で実際に観ていると思います。そして「俺だって新聞紙はいっぱい描いてきたぞ」と。《壁と人》とかね。「こんなことで現代美術面をするな」と。それこそ「純粋抽象くそくらえだ」と言い合っていた頃の気骨が再燃して、「じゃあ新聞紙で勝負してやろうじゃないか」という気持ちになったのではないかと思います。要するに、《人と牛B》のような絵を描いていても馬越陽子のようにはいかない。なので、やはり原点に立ちかえってみようと描き始めたのが《室内風景》(1970年、北海道立近代美術館蔵)だった。

「半身の馬」。絶筆と言われます。最近の研究では、《馬(絶筆・未完)》(1970年)のほうが《室内風景》より着手が早かったと言われます。この制作が途中で止まってしまって、新聞紙を丹念に描いた《室内風景》を描き始めることになります。「半身の馬」の制作が止まった理由ですが、エスキース、スケッチはたくさん描いていますね。馬のいる「状況」を決めかねたのだと思います。

さて、一明さんの話に戻りますが、形の輪郭からはみ出すような、絵具の流動性を発揮した絵をしばらく描いた後に、こうして輪郭のきちんとした絵に戻るのですね。

《待つ人B》(1979年)は、色のことはさておき、椅子の形や人物の形がわかりますよね。比呂子さんを描いているのだと思いますが、本人を見て描いてないそうです。比呂子さんも、ポージングしたことは無いと言うのです。日頃の比呂子さんを見ていて、記憶で描いている。比呂子さんは「私こんな服は持っていないもの」という反応でした。

《その日A》(1988年)は現在会場に並んでいる絵です。この頃から、自分をキャラクター化したような人物が登場します。後ろ側に物が散乱している。当時の一明さんは、核戦争の恐怖から、本当にどうしようもなくなった、と。僕は一明さんから「君は怖くないのかね」と言われました。「いつ指導者が核弾頭発射のボタンを押すかわからないじゃないか」と、「それで表現がどうしてもこうなった」と。僕はこの絵を見てこのあたり(画面右側)が髑髏に見えたので、そう一明さんにお話をしたら、先ほどのようにお話ししてくださり、「そんな髑髏なんて描いていないよ」と言うのですが、私にはそう見えるという話です。

「本当のこと」を絵の中で言おうとするときに、自分の姿をキャラクター化して、一回距離を置いてやろうとするのは、普通と言えば普通なのかな。自然と言えば自然なのかな。「怖い」という気持ちをそのままぶつけても描けないから、いったん自分をキャラクター化して、黒目の中の瞳だけが目立つような人物を描いて、家の中で痩せ細っているというような…この《飢えるC》(1996年)は食料危機ですかね?

この《猫と女》(2012年)という絵については、気持ちにゆとりが出来たということが会場のパネルに書いてありました。よく見ますとベニヤ板に描かれており、下に別の絵が描いてあるように思います。ですので、そんなに簡単な絵でもなさそうな気がします。

日勝さんが亡くなった後、大好きだった弟が早くに亡くなってしまって自分は生き残ってしまったという思いや、核戦争の恐怖を抱えていると、こんな気持ちになるのかもしれませんね。この《自画像》(制作年不詳)も会場に並んでいますよね。スクリーンで見ていただくより、実物をご覧になったほうがはるかに良いと思います。

 

さて、ここまで神田兄弟の仕事の流れについておおまかにお話してきましたが、ここからは戦後の日本美術の流れを1970年くらいまで概観し、その流れの中に神田兄弟の仕事をどう位置付けることができるかを考えたいと思います。戦後の流れを見るために、まずは戦中の美術を見ていきましょう。

この絵は藤田嗣治の《アッツ島玉砕》(1943年、東京国立近代美術館蔵)、戦争画ですね。私は今回の講演のために色々調べているうちに、戦争画について真面目に考えたことがないことに気がつきました。戦争画は、考えることがなんとなく「タブー」のようになっていて、なんだか面倒くさいな、と。そして藤田の絵ですが、藤田はすごく絵が上手いから、この絵はすごく気持ちが悪い。戦意を鼓舞しているような絵ではないわけです。「こんなところに行きたくない」という地獄の絵ですから。これをよく陸軍が許したものだな、というか…そういうことも含めて、戦争画のことをちゃんと考えなくてはいけないなと思いました。絵の右下の隅に花が描いてあるのです。アッツ島にしか咲かない花。このことについて一冊本を書いた人がいることを知りました。確かに戦争画に花を描く気持ちというのは、簡単じゃないなと思いますね。

藤田が戦争画をたくさん描いて軍部に協力したから「反省しろ」と言った人がいるのです。内田巌と言う人で、内田魯庵の息子です。この《港》(1934年)は内田が戦争前に描いた風景画です。学生時代の後くらいかな、アカデミックな絵をきちんと描ける人です。

内田の《鷲》(1941年、神奈川県立近代美術館)は、戦争中に描いた絵です。《家庭防火図》もそうです。この人は、戦後いち早く民主主義の美術が人民にとって大事だということを言い始めたのです。そんな人が、戦争中ではないにせよ、銃後の守りを固めるという絵(戦意高揚画)ですよね、自分もそれを描いていることには口をつぐんで、藤田嗣治に「けしからん」と直接言いに行ったのです。私はそれがすごく不思議な気がします。

女性画家も戦争に協力していました。この絵《春爛漫》(1952年)は戦後の作ですが、作者は長谷川春子と言います。女性画家を集めて大きな壁画を作ったり、兵士を慰問したり、慰問先で絵を描いたりしていたのですが、そういうことを私は全然知りませんでした。最近『女性画家と戦争』という本が平凡社新書で出て、その本では当時の状況をすごく克明に調べてあります。でも、長谷川たちがそういうことをしたから悪いのか、というのも私にはわからなくなってきて…。「戦争を賛美する奴らはとんでもない奴だ」と思っていたけれど、世の中が全体主義で進んでいったら、個人の画家は抵抗できなくなってしまうのではないかと。せめて須山計一《鍛工作業》(1943年)のように、鉄工所を描いて、迂回すると言うか、フェイントをかけると言うか…。

それから「郵便貯金をやりましょう」という絵(新海覚雄《貯蓄報国》1943年、板橋区立美術館蔵)。新海覚雄さんといって、戦後の左翼系の美術家に資料をたくさん提供した人です。この人は有名な彫刻家・新海竹太郎の息子でお金持ちだったから、ヨーロッパからたくさん資料を取り寄せることができたのです。日本円が360年の時代ですよ。今は130円を越えたと言ってあたふたしているではないですか。みな新海さんに世話になったけれども、当人も戦争中は「貯金をいっぱいしましょう」という絵を描いているわけです。こういう穏やかな絵もありますよ、大久保百合子《散髪》。「丸坊主になりましょう」という。それから柴田安子《木材供出》は、「私たちが守っているからもう大丈夫だ、戦ってこい」という絵です。

例えば内田巌は、藤田嗣治とははっきり言えば画家としての「格」が違うわけです。その内田が民主主義を標榜することで、例えば藤田の戦争責任を問うことが、本当に、そんなにシンプルにできることなのだろうか?と…今回それを考えたのですが、結論は出ていません。

ただ、民主主義の美術を標榜してそれを進めようとしたことに意義はあるでしょう。ストライキが破られたり、安保条約が締結されたり、基地が作られたり、どんどんとんでもないことになってくるわけだから、抵抗しようという勢力に「抵抗を応援する絵を描きましょう」という立場もあるとは思うけれども…そう単純には行かないというか。

これは松本俊介が描いた「焼野原」、《郊外(焼跡風景)》(1946年、岩手県立美術館蔵)です。一明さんや日勝さんがいた頃の東京でしょう。松本俊介も実は戦争画を描いています。戦後の民主主義を最初に言い始めた絵描きの一人で、すごく良い絵描きです。航空兵が並んで整列している絵を描いています。

この選挙の絵《平和投票(農村から)》の作者、矢部友衛は、戦前から活躍していたプロレタリア美術の画家です。皆さんがご存知かはわかりませんが、 1946年まで女性には参政権がありませんでした。選挙に参加できなかったのです。この絵は、「いよいよ選挙に参加できるようになったから投票しましょうね」という絵だと思います。「投票に行けない人は私が持って行くからね」という。この絵と藤田の絵(《アッツ島玉砕》)と比べてみると、どうかなあ、これも素朴で良い絵だけれど…。これって「選挙をしましょう」という主張が無くなったら、どういう絵になってしまうんだろう。

こちらは向井潤吉という、戦後二科会から分かれて結成された行動美術協会(行動展)の画家で、戦時中は迫力のある戦争画を描いていました。戦後はこの《漂人》のような、行くあてのない人の絵を描いているのです。怪我をして働けないとか、働き口がなくなったとか、戦争から帰ってきたら家族がどこにいるかわからないとか、当時はそういう人がたくさんいたのです。

続いて、民主主義の美術を先陣をきって主張していた永井潔さんの《蔵原惟人像》(1947年、板橋区立美術館蔵)。共産党の文化政策部の責任者、蔵原惟人を描いた絵で、すごくしっかり描いてありますが、「でもこういう絵を描いてもなあ」と私は正直思うんですよ。「蔵原惟人を描いているからこの絵は進歩的、民主主義的だ」とは言えないですよね。先ほども言いましたけど、実存主義とかキュビスムとかシュルレアリスムとかダダイズムとか、そういうことに無関心な人は、当時のインテリのなかにはいなかったわけですが、この絵はそういう思潮とは真っ向から対立しています。

それから、これは箕田源二郎の《内灘試射場》という絵です。石川県の内灘が米軍の演習場になりまして、その反対運動が起こった状況を描いた絵です。確かに箕田の絵の中では良い絵だと思いますが、「戦場に行く子を見送っている銃後の人々」と言っても通用するのではないか?私はわからなくなるんですよ。絵自体がちゃんと「これは銃後の守りを示す絵ではなく、反基地闘争の絵だ」と示せないのかと。

時間が来たので、今回の講演で言いたかったことを端折って言います。戦後、1950年ぐらいまでに、大きな動きがありました。ひとつは、団体展が再編されたこと。生前は帝展と言った大きな展覧会が日展に改められたり、それから民主主義美術を標榜する日本美術会が結成されたり。日本美術会は無審査の展覧会―アンデパンダン展と言いますが、それを始めたら、読売新聞社がそれをすかさず真似をして日本アンデパンダン展をやる、とか。そういう団体展とか公募展が再編されていく動きが、激しく起こります。

それから、リアリズム論争。我々が生きて暮らしているこの状況をリアルに捉えるにはどうしたらいいのか、という論争が1945年から起こって、51年まで4、5年かかってやっています。さきほど話に出た永井潔や林文雄が左翼の陣営にいて、その人たちは「モダニズムというのはブルジョワジーが作った文化だから全部ダメだ」と言うのです。「新しい人民のための文化を作らないとだめだ」、「そういう絵画を描こう」と。言葉はすごく勇ましいけど、実態が無い。

先ほど見た永井潔の蔵原惟人の絵は、しっかり描けてはいるけれど、古風でしょう。古風な絵を描くのは確かに難しいですよ。しかし、モダニズムというものは、古風なものを反復することを許さないわけです。新しい価値観を作って個性を発揮しないと、モダニズムにはならない。近代はそうやって進んできたのです。皆が皆セザンヌみたいな絵を描いたら、皆セザンヌになってしまう。面白くないじゃないですか。セザンヌと違うゴッホがいたり、ゴッホと違うロートレックがいたり、もっと違うマルセル・デュシャンみたいな人がいたりするから面白かったわけで、それらを全否定するように「人民のための民主主義美術」と言われてもね。しかも「人民のための民主主義美術」を主張している人が、この古風な絵を描いているの?これが民主主義美術なの?と…。

「人民のための民主主義美術」というような主張は、おそらく北海道にも届いていたと思うけれど、一明さんや日勝さんは簡単にそういう流れには与しなかったわけですね。かといって、「モダニストになるぞ」とも思えなかったと思います。お金持ちの、余裕のある人が絵を描いているわけではないので。ここは大事なところだと思います。

リアリズム論争を過去のものとはせずに、今読んでも読みごたえがあるようにしたのは、土方定一の役割が大きかったと私は思います。彼は研究者で、神奈川県立美術館の館長を長く勤めて、先ほどの松本俊介や麻生三郎を高く評価した人です。これ(雑誌『みづゑ』)は、リアリズム論争が最初に始まったときの雑誌です。この号には林文雄が書いていますが、あいにく紹介する時間は無さそうです。

1951年には、「サロン・ド・メ」展がフランスからやってきました。これは戦後初めて海外からリアルタイムの美術が来た展覧会なのです。次の年、日本から絵描きがサロン・ド・メに招待されて、何人も出品します。サロン・ド・メとは「5月の展覧会」という意味です。当時パリにいた、富永惣一(美術史家・元西洋美術館長)だったと思うけど、彼は「日本の作家たちは絵が薄汚い、全然ダメだ」と言った。それがまた論争になるのですが、そういうきっかけになった、サロン・ド・メ。

そして、先ほど出た「世界・今日の美術展」。アンフォルメル旋風のきっかけになった展覧会です。アンフォルメルは、非定形、形がないという意味。要するに、丸とか三角はまあ許すけれども、人間の形とか、山とか海のようなものは、形があるものとして描かない。そういう形が無い絵を描く画家たちが登場したのです。細かい資料もたくさん持って来ているのですが、もう時間が無いので省略します。また機会があればご紹介します。

日勝さんと一明さんのことをちゃんと喋ろうと思ったのですが、戦後美術との関係は、どんなふうにしても時代の状況からは画家、美術家ひとりひとりは逃れられないので、誰かからの影響を受け、誰かから学び取って、それを自分のものにしていく。そういう道筋は、避けることができません。日勝さんにしても一明さんにしても、いろんな人たちからの影響を受けるし、それを指摘することもできるけれど、それを取ってなお残るものが神田日勝だし、神田一明なのです。二人ともそういうものが確実にある。やはり稀有な兄弟だと思います。

リアルタイムでヨーロッパやアメリカと同じことをやっているとか、そういうことは無いけれど、二人とも自分なりにリアルタイムの状況を咀嚼して、精一杯それに反応して、戦っていく。しかも、自分が見ているもの、感じているものをおろそかにしないということが、神田兄弟に共通して言えることです。

僕より十歳ぐらい上の人たちは、ポップ・アートの影響をすごく受けた。それより十歳ぐらい上はアンフォルメル、さらにそれより十歳上は、戦争ですよ。そして僕らの世代は、コンセプチュアル・アートとか、ミニマル・アートとか、日本の「もの派」とか、そういう潮流の煽りを思い切り受けた世代です。このインスタレーション《地下動物園》(1971年)の作者である高山登は、「もの派」と言われると怒る人ですけど、私は今も付き合いがあります。日勝さんが亡くなったという知らせを聞いた次の年の展覧会で彼の作品を観たのかな。柳屋画廊での神田日勝遺作展があった年(1971年)の5月頃の展覧会で観て、今でもありありと思い出せる。それから亡くなった榎倉康二の《壁》(1937年)。私はこういう人たちが身近にいたので、もろに彼らの波を受けました。

それぞれ10年ぐらいの単位で、海外の動向を含めて、波に飲まれていくのです。そこで、どうやって自分を培って、自分なりの表現をつくるかというのは、誰にとっても課題で、それは私も日勝さんも一明さんも変わらなかった。

私は無名のままで良いのですけど、日勝さんはこうやって美術館が建つくらい、鹿追の人々が日勝さんの作品を本当に大事にして、いろんなことが起こっても、それを乗り越えてやってこられていることに敬意を表したいと思います。

 

(2022年(令和4年) 6月18日(土) 11:00~12:30/鹿追町民ホール・ミーティング室)