特別企画展に思う
かねてから僕にとって懸案だったことがある。
嘱託職員という辞令をもらう前に、本来なら解決しておかなければならないことだったかも知れない。
僕らのように個人名を冠した美術館に席を持つものの使命は、ひとつには顕彰する画家から日本美術史を照射することにある。
神田日勝という画家が日本の洋画壇にどのように位置付けされるのか、その検証と定位こそなされなくてはならない作業である。
1992年北海道立近代美術館と下関市立美術館は共同企画として「日本のリアリズム」展を開催、神田日勝を曹良奎・中谷泰とともに1950年代のリアリズムの一時期を画する画家として位置づけた。
神田日勝記念美術館における神田日勝の画業の評価はこの作業に基づくところが大きい。
しかし、これを深化させる作業や展覧会は、これ以降全くなされていない。
神田日勝が戦後の洋画壇史に定位された「新具象」とはいったい何か、またその系統に連なる作家群像は、そのことが頭を離れることはなかった。
次年度に開館二十周年を控えた神田日勝記念美術館は、特別企画展として大きな規模の展覧会を予定し、その作業に全力を傾注することとなり、本年度の企画は僕が担当することになった。
これは従来からの課題の解決を果たす最後の機会と思えた。
現在は十勝美術史の集成に尽力されている美術史家米山将治氏(元神田日勝記念館長)にかねてからの新具象の画家としての日勝像を北海道における史流をご教示いただき、佐藤友哉氏(現札幌芸術の森美術館長)に作家群像のアドバイスをいただいた。
制作年の関係から生じる作品の保存状況、予算の関係から生じる遠隔地からの作品搬送、クリアできなかったことも多い。
それでも北海道における新具象の画家たちの系譜に一石は投じられたものと思う。
アクシデントも生じた。
この系譜に連なる画家の宝庫といえる夕張市美術館の被災である。
作品構成が完了した後でのできごとでこの衝撃は大きかった。
一時は作品の出品を断念する事態になったが、上木和正氏(元夕張市美術館長)の奔走と夕張市教育委員会のご英断で瀬戸際で回避することができた。
また輿志崎朗氏の遺作―これは日勝のアルバムに作品写真が添付されており、かつて竹岡和田男氏も新聞コラムで日勝への影響を指摘している)が展示できたことである。
不十分ながら、この企画により北海道における新具象の系譜への試論を展開したつもりである。
ただこの企画構成の完了後、銀座の画廊で池田龍雄氏に会う機会を得た。
新具象からシュールへ、とりとめもなく交わした会話を思い出しながら、もし次の機会があればと思うこの頃である。
菅訓章(神田日勝記念美術館長)