動く「神田日勝遺作展」資料の発見
作家が没した後の作家研究は、交友関係者からの聞き取り調査や散逸している作品調査など地道な取り組みが多いものです。特に交友関係は日勝が生きた同時代の友人等が既に80歳前後と高齢になり、50年も以前の記憶を明快に辿ることには限りもあり、喫緊の取り組みとなっています。夭折した日勝は開拓者として過酷な労働に明け暮れながらも、寸暇を惜しんで油彩画の制作に打ち込みました。寄贈・販売した作品など散逸している数を確定することは出来ませんが、今年度も新発見の作品が数点台帳に登録され、改めて調査を続けることの重要性を感じているところです。
さて過日、日勝が没して二年後の1972年に鹿追町内で開催された神田日勝遺作展会場を撮影した16ミリフィルムが、当時の撮影関係者様から寄贈されました。会場は1967年新築の鹿追町社会福祉会館。1階には結婚式場となる和室、小・中会議室、結婚祝賀会の料理を賄う厨房を備え、2階が250人規模の披露宴が可能な大会議室、3階は図書室を擁しており、当時としては近代的な建物として町民の利用率も高いものでした。
寄贈されたのはわずか10分足らずの遺作展の動画フィルムですが、映し出される日勝の遺作の数々・遺影、父要一氏やミサ子夫人、未だあどけない長男(哲哉さん)・長女(絵里子さん)、はたまたタオルを首に巻いたオジサン、当時流行のミニスカートに極端な厚底靴姿の女性来場者、レトロな雰囲気の乗用車などから、日勝が生きた高度経済成長期当時の十勝・鹿追町の雰囲気が見て取れるものです。
奇しくも日勝が没した1970年は日本万国博覧会の大阪開催で経済大国を世界にアピールした時であり、一方では70年安保闘争なども繰り広げられるなど激動の社会が時代背景にありました。さらに地元の鹿追町も開基50年のお祝いムードにありましたが、粛々と営農と作家活動を展開する日勝は、『NHK土曜随想「然別湖と釣り人達」1970年5月放送』で次のように記しています。
「然別湖の春はおそい。4月…(中略)灰色によどんだ都会の空、青白い蛍光灯の光とコンクリートの冷たさ、利潤の追求、物質優先、等など、社会が非人間的な方向へ人々を押し流していく中で青白く衰弱した現代の男たちが小さな美しいオショロコマと対決した時、それはたくましい一匹の野生の雄になる時なのだ。…(略)」
自然の猛威・激動する社会と対峙しながら常に身の丈にあった営農を続ける日勝の日常にも機械化の波などが覆いかぶさるように押し寄せました。黙々と自身が求める生き方を貫きながらベニヤ板に描き続けた日勝でしたが、余りにも突然に最後の時は訪れ、十勝のなつぞらに散ったのでした。
当館では、16ミリフィルムに映し出される時代を顧みながら、日勝作品を鑑賞していただけるよう、今後皆様に公開する方策を検討しているところです。
神田日勝記念美術館館長 小 林 潤