神田日勝と拓北農兵隊 その2

 進むも地獄、止まるも地獄。神田一家が火の海と化す首都を見渡しながら、列挙された募集要項の甘い文言に応じるのは自然の成り行きだったのでしょう。一行は、幾度も米軍の空襲や艦砲射撃に遭いながら終戦前日の8月14日に鹿追村に辿り着いたのでした。神田一家の厳しい開拓生活の始まりでした。
 前述の募集要項の特典などは殆ど無いに等しく、住む家も無く近隣農家の助力で燕麦(えんばく)がら葺きの粗末な掘っ立て小屋を建て、与えられた「農地」とは名ばかりの巨大な根株が無数に残された荒地を開墾することが一家の農作業の第一歩でした。僅かに配給を受けたものは鍬一丁と鋸一枚であったそうです。
「第五次拓北農兵隊」に応募した集団帰農者は、鹿追村戦後開拓団第一号であり、村の人々は彼らを「東京疎開者」と呼び受け入れ態勢を整えて待ち受けましたが、着の身着のままでつぶれた鍋釜を携えた彼等の姿に、涙をこらえることが出来なかったといいます。
 幼い日勝も、都会生活では想像も出来ない北海道十勝の開拓という環境変化を体験しながら成長していきます。多くの仲間が言語に絶する苦闘の日々に希望を失い離農を余儀なくされる中、家業を継ぎ、度重なる大冷害や凶作など大自然の脅威を乗り越え、社会の不条理なども目の当たりにしながら培った強靭な精神力を武器として、鹿追の大地に根を下ろしたのです。
 日勝の作品の前に立つと、描画専用に自分で改造した左官コテを操り、その一塗り一塗りに「ものの本質」を注ぎ込み、魂を描き込んだと感じられ、見るものを圧倒する心の叫びが伝わってくるといわれます。
 拓北農兵隊の一員として鹿追に辿り着いた日勝。拓北農兵隊の是非はともかく、この制度が日勝の人生を大きく変えたことは否めません。日勝は愛馬と共に時代と闘い、そして決して自分を裏切らない家族同然の愛馬を描き続けたのでしょう。時代の波に翻弄されながらも、なお自らを律しつつ独自の画風を追い求めましたが志半ばにして病に倒れ、惜しまれながら32歳8か月の生涯を閉じたのです。
 神田日勝記念美術館には今も憂いを帯びた眼差しの半身の馬が佇んでいます。

参考文献
 『石井次雄著「拓北農兵隊」戦災集団疎開者が辿った苦闘の記録』 2017年
 『鹿追町史』 1978年

 神田日勝記念美術館館長  小 林  潤