「農民である。画家である」と、明確に語った神田日勝。
『結局、どういう作品が生まれるかは、どういう生き方をするかにかかっている。』
( 25周年記念全道展帯広巡回展目録より )
彼の生涯を貫いた画家としての姿勢である。
1945年の終戦から1960年代まで戦後の開拓農民として生き、同時に、ものの本質にせまる克明な描写によって、
戦後日本の具象絵画に異彩を放つ作品を残したこの画家は、
最後の完成作【室内風景】と前半身だけ克明に描き出された【馬】(絶筆)を今の私達の時代に残したまま、あるいは美術そのものへの本質的問いかけを遺したまま、32歳8ヶ月の短い生涯を閉じた。
彼が生きた時代は、戦後日本の高度成長と資本主義の矛盾や弊害がさまざまな形で広がっていった激動の時代と重なっている。
神田日勝は1937(昭和12)年、東京・練馬に、父神田要一、母ハナの二男として生まれた。
日本の敗戦色濃くなった1945(昭和20)年8月、拓北農兵隊(戦災者集団帰農計画)に応募し、北海道へ向かう。
鹿追に着いたのは終戦の前日8月14日であった。
"東京・疎開者"は全く農業の経験もない中、素手同然での開拓を強いられ、その殆どが5年を待たず脱落した。
だが、神田一家は定着した。
1953(昭和28)年、中学を卒業すると営農を継ぎ、地域の青年団の中で演劇や相撲、釣りなどに積極的に取り組む快活な青年として成長した。
その頃兄一明は東京芸大に進学。
元々絵に興味のあった日勝は兄の影響を受け本格的に油絵に取り組むようになる。
1956(昭和31)年、初めて帯広の公募展(平原社美術協会展)に【痩馬】を出品し、入賞する。
その後、札幌の全道美術協会展、東京の独立美術協会展と発表の場を広げてゆく。
初期の作品【家】【ゴミ箱】【飯場の風景】などは、ベニヤにペインティングナイフで描くという独自の画法と、こげ茶色の色調から、
十勝の大地に深く根ざした画家の生きざまが強く感じられ、【馬】【牛】は、画面全体に大きくその存在感を際だたせている。
日勝は農民画家と呼ばれることを嫌い、その主題は画室、家族、男女、社会風俗と時代と文化を色濃く反映したものに変化した。
同時に1960年代後半からは日本の美術界に吹き荒れたアンフォルメル旋風の影響を受けて、
多くの画家たちが抽象絵画へと傾斜してゆく中、日勝も激しい筆触で表現主義的に描いた作品を制作する。
【画室】の連作、【人間A】【人と牛】の連作【ヘイと人】などがそれである。
【室内風景】は、1970(昭和45)年、最後の完成作で、中央にうずくまる男と画面全体を新聞紙で覆われた異様な室内が見る者に強い印象を与える。
この作品は、現代に生きることの意味を人間の心の深奥に届く迫力で描き、彼の代表作となった。
また、【馬(絶筆)】は、むき出しのベニヤに克明に描かれた馬の半身が、
未完成でありながら完結したイメージがあり、見る者の想像力をかき立てる作品である。
あの白いキャンパスは己の心の内側をのぞきこむ場所であり、己の卑小さを気づき絶望にうちひしがれる場所でもあるのだ。
だから私にとってキャンパスは、絶望的に広く、不気味なまでに深い不思議な空間に思えてならない。
私はこの不思議な空間を通して、社会の実態を見つめ、人間の本質を考え、己の俗悪さを分析してゆきたい。
( 生命の痕跡より )
神田日勝著述文より一部抜粋
| 年代 年齢 |
生活・地域 | 画歴 |
|---|---|---|
| 1937 1歳 |
12月8日東京市板橋区練馬南4丁目16番地(現東京都練馬区練馬1丁目30-2)に父-神田要一、母ハナの二男として生まれる。幼少より絵に興味を示した。 | |
| 1945 8歳 |
東京大空襲の戦火を逃れ、家族ぐるみで拓北農兵隊に加わり渡道。8月14日に鹿追到着。翌日終戦。 鹿追集会所に借り入居、11月鹿追村クテクウシ区画外35番地(現鹿追町笹川北11線7号)の開拓用地(5ヘクタール)に入植。 |
|
| 1950 13歳 |
4月鹿追中学校に入学。美術部を創設。 | |
| 1952 15歳 |
兄一明の影響で油絵の制作を始める。 | |
| 1953 16歳 |
営農を継ぐ。 | 3月鹿追中学校卒業。卒業時「特に美術に優れていた」という異例の賞を受ける。 |
| 1955 18歳 |
兄一明、東京芸術大学進学。 | |
| 1956 19歳 |
9月帯広の第31回平原社美術協会展に【痩馬】を公募展初出品、朝日奨励賞受賞。 | |
| 1957 20歳 |
10月第32回平原社展【馬】を出品、平原社賞受賞。 | |
| 1958 21歳 |
この頃、青年団の一員として演劇発表会に出演する他、演劇舞台装置も手がける。 青年団の弁論大会で1位となるほか、釣り、陸上競技、相撲等多方面で活躍する。 | |
| 1959 22歳 |
第34回平原社展において会員推挙。 | |
| 1960 23歳 |
6月第15回全道美術協会展(全道展)に【家】が初入選。 同展では兄一明が市教育長賞、一明の妻比呂子(彫刻)が道知事賞を受賞。 | |
| 1961 24歳 |
6月第16回全道展で【ゴミ箱】が道知事賞、兄一明が道教育長賞を受け、兄弟同時受賞が話題となる。 | |
| 1962 25歳 |
2月25日高野ミサ子と結婚。 | 4月北海道新人作家選抜美術展に【ゴミ箱】を出品。 6月第17回全道展に【人】が入選。 |
| 1963 26歳 |
1月帯広美術協会展の創立に参加、【板・足・頭】を出品。 5月第18回全道展に【板・足・頭】を出品。会友推挙。 |
|
| 1964 27歳 |
2月、長男哲哉生まれる。 この年の大冷害が引き金となり、農村では過疎化が始まる。離農跡地の交換分合により総面積7町歩となる。 |
5月第19回全道展に【飯場の風景】を出品。第2回帯広美術協会展に【作品】を出品。 10月第32回独立展に【一人】【板・足・頭】を出品。 |
| 1965 28歳 |
第4回独立選抜展に新作【飯場の風景】を出品。第33回独立展に【馬】と【死馬】の2点入選、新人室陳列となる。 NHK帯広放送局制作のテレビ番組で絵画の制作過程が紹介される。 | |
| 1966 29歳 |
第5回独立選抜展に【牛】を出品。第21回全道展に【静物】を出品、会友賞を得て会員推挙。 帯広弘文堂画廊で油彩個展。第34回独立展に【画室A】入選。 | |
| 1967 30歳 |
NHK札幌放送局制作のテレビ番組「鍬と絵筆」で神田日勝の生活を紹介。 自宅に5坪のアトリエ増築。 |
【画室】連作期に入り、色彩が鮮やかになる。 第6回独立選抜展に【画室C】、第22回全道展に【画室D】を出品。全道展帯広地区作家展を結成。第35回独立展で【画室E】入選。 |
| 1968 31歳 |
3月、長女・絵里子生まれる。 乳牛4頭、馬1頭、耕地14ヘクタールとなる。 |
第7回独立選抜展に【室内風景】出品。【人と牛A】以降、缶入絵の具を使った厚塗り大作群を制作。 第23回全道展で【人と牛C】入選。10月第1回北海道秀作美術展に【人と牛D】出品。 |
| 1969 32歳 |
1月帯広市・うけがわ画廊で「神田日勝個展」。 5月第8回独立選抜展に【作品B】出品。第37回独立展に【人間B】入選。 | |
| 1970 32歳 8ヶ月 |
6月下旬、農作業中雨にあい風邪をひく。8月からだの不調が続き、新得の医院へ入院。
病名不明のまま悪化し、清水赤十字病院に転院したが、腎盂炎による肺血症で死亡。 8月25日永眠。 8月27日全道展葬執行。戒名「晴耕院画道日勝居士」 |
6月全道展に最後の完成作【室内風景】を出品。7月全道展帯広巡回展会場設営。 |